"reveillon"というのは、手元の辞書によると大晦日を意味するようだ。しかし、
バイーアでは、ある特定のイベントを指し示すものとして使われている。それは、
バーハ灯台のふもとで毎年行なわれる恒例の音楽イベントのことで、新聞などには
"Reveillon da Barra"と固有名詞扱いで表記される。
 大晦日の夜、野外で行なわれるこの無料コンサートは、バイーア市民にとって新
年を迎えるのに欠かせない行事なのだ。僕は過去に五回ブラジルを訪れているが、
うち三回は年末年始の休暇を利用しての訪問だったので、このイベントを楽しみの
一つにしていた。


              <Reveillon 97-98>       


 初めてのブラジル、憧れのバイーア。到着したのは金曜の午後で、30時間の空の
旅と12時間の時差で頭も体もふらふらだった。だが、バイーア訪問3回めの相棒は、
眠ってはいけないという。毎週金曜の夜は、DIDAのライブがあるというのだ。
 僕はこのとき、DIDAのことなんて全く知らなかった。できたばかりのバンド
で、いわばオロドゥンの女性版だと説明されても、あの激しいパーカッションを女
性の細腕で真似ようなんて無謀だな、ぐらいにしか思わなかった。

 夕暮れ時、テレーザ・パチスタのステージ前で手持ち無沙汰に開始を待った。開
始時間どおりに入場したのに、人はまばらだった。やがて、闇が天空を覆うころ、
ステージ前の広場に白い服を着た少女たちが現れた。少女たちはシェケレ、アゴゴ、
アタバキなどのアフロっぽい楽器が生み出すビートに乗って、熱く激しく、そして
なによりも美しく、僕たちの前で舞っていた。僕はただ、口を開けたまま、呆然と
それを眺めるほかはなかった。

 バイーアにはチンバラーダとシモーネ・モレーノだけじゃないという真実を、こ
のとき初めて知った。(これは、ネギーニョの創設したDIDA音楽学校のダンサ・
アフロ部門の生徒たちがつとめた「前座」だったようだ)

 我に返る間もなく、DIDAの演奏が始まった。パンチの効いた声、鋭いビート、
溢れるエネルギー……。なんてこった!まだCDの一枚さえ出していない、音楽学
校の女の子(とは言い難い年齢の人もいたようだが....)たちが、こんなに迫力ある、
レベルの高い演奏を聴かせてくれるとは!

 僕は、我を忘れて踊りまくった。生の音色が気持ち良い。ステージの奥にスルド
系の、安定したリズムを奏でる大型太鼓が並び、右と左にチンバウ(スティックを
使わないで手で叩く太鼓/チンバラーダの語源)担当の女性が一人ずつ、そして正面
にマイクスタンドが数本、曲ごとにヴォーカルが入れ代わって歌い続ける。ヘピー
キ隊がその横で鋭く切れ込んでくる。何曲も、何曲も、怒涛のリズムが押し寄せる。
ステージの下では、群衆たちが狂い始める。なんて熱さだ!

 熱いのはステージの上だけじゃない。日本では経験できない聴衆のノリ、そして
終了時間を気にしない、リラックスした空気。ハジけまくる群衆に煽られて、僕は
すっかり舞い上がってしまった。

 ステージの上から、見慣れないチビの東洋人が滅茶苦茶なステップで狂ったよう
に踊っているのが、よく見えたらしい。何人かが、演奏しながらこっちを指差して
くすくす笑っている。舞い上がってしまっていた僕は、ニコニコと手を振って応え
る。ステージ上の彼女たちも、演奏の合間に僕に手を振ってくれる。

 人込みを掻き分けて、ステージのすぐ下まで近づき、ひとり一人の演奏を聞き分
けてみた。その結果、端っこでチンバウを叩いている小柄で痩せた女の子(子供みた
いに見えた。まさか?)の音色とリズムが、いちばん気持ち良く踊れるノリだという
ことがわかった。それからは、ひたすら彼女のチンバウに合わせて、無心になって
踊った。

 どのくらい経ったのだろう.....何時まで続くのだろう......そんなバイーア体験の、
これが一回目だった。大阪で踊ったチンバラーダは、僕の体力が尽きそうな頃に、
主催者かホールの都合でフィナーレを迎えた。だが、ここバイーアでは、いつまで
たっても終わりそうにない。人々は、無限のエネルギーに支えられて踊り続ける。
息があがった僕は、ステージ横にわずかに空いていたスペースにへたり込んで、何
度も休憩した。チンバウの女の子が、そんな僕を見とがめるように、こっちを見な
がら激しいリズムで挑発する。畜生!なんて熱いんだ!そう呟きながら、最後の一
滴を絞り出すようにして、それに応える。

 そんなふうにして、相棒がいたことさえ忘れてはしゃいでいたが、ものごとには
いつか終わりがやってくる。日付けが変わった頃に、突然演奏が終わって、人々が
出口に向かいはじめた。「え?終わったの?」そんな感じだった。

 DIDAのお姉さんたちが、それぞれの太鼓を抱えてステージを降りる。ぼんや
りそれを眺めていると、どうも様子がおかしい。野球帽の後ろから束ねた髪を伸ば
した巨漢(彼が"サンバ=ヘギ"を提唱したネギーニョだとは、まだ知らなかった)が、
なにやら指図をしている。

 人がまばらになったステージの下で、またもや演奏が始まった。太鼓だけの編成
で、演奏しながらゲートの外へ出ていく。大音響のパレードを聞きつけて、附近を
歩いていた観光客や地元の若者、子供たち(こんな夜中に何をしているんだ?!)が集
まってきた。ペロウリーニョの狭い石畳の道に、たちまち人だかりができる。その
中を突っ切るように、DIDAの太鼓部隊が練り歩く。太鼓の響きが天空まで立ち
上ってゆく。

 彼女たちは、DIDA音楽学校のそばまで歩くと、一人ずつ30秒ぐらいソロを
やってから、ドアの向こうへ消えていった。周囲を取りかこむ群衆たちが拍手で
それを見送る。

 最後の一人が、チンバウのあの少女だった。

 彼女がソロをとり始めた時、知らないうちに僕は人垣のど真ん中、つまり彼女の
真正面に飛び出して、彼女のリズムに合わせて狂ったように踊っていた。 自分でも
何が起こったのかわからなかった。
 気づいたらそこでそうしていた。誰よりも自分がそのことに驚いていた。

 群集はやんやの喝采。ネギーニョが指示したのか、彼女はなかなかソロをやめよう
としない。僕は息が上がって苦しくて「死ぬ、死ぬ...」と思いながら必死の無酸素
運動でステップを踏み続けた。

 ようやく彼女が引っ込んだあと、ゼイゼイ言いながらぶっ倒れている僕に、裸足の
子供たちが、親指を立てて笑顔を向けてくれた。
 後で相棒から「おまえ、なあ…」とあきれられたけど、いい思い出になった。

 そんなふうにして始まった初めてのバイーア、何もかもが新鮮で、心を揺さぶられた。
すっかり浮ついてしまい、日本の友人にこんな絵葉書を書いたりもした。
「僕は今天国に来ています。空も街も人も、すべてがキラキラと輝いています。僕は
 もう脳みそがとろけてしまって、まともな文章なんて書けません。帰りたくない。」

・・・そうそう、大晦日のことを書かなければならない。こんなふうに書いてたんじゃ、
いつまで経っても終わりっこない。いろんな出来事を割愛して、1997年の12月31日に
飛ぶことにしよう。

 相棒が街で拾ってきた情報によると、バーハという海岸の方に、フィーリョス・ヂ・
ガンヂーが現れるらしい。そして、海に花束を捧げたり砂浜に蝋燭をともしたりして、
新年を祝うということだった。たくさんの人が白い服を着て集まるのだとか。

 なんだか荘厳そうだ。夕暮れを待たずして、行ってみようということになった。

 しかし、海岸に着いてみると人影はまばらで、何も起こりそうな気配がしない。夕食
をとろうと思っても、開いている店は全て貸し切りか予約客オンリーで、まったく相手
にしてもらえない。うろつきまわるうちに日が暮れてきた。

 なんてこった、ペロのホテルに帰ろうか、などと考えだした頃に、公道に堂々とテー
ブルを並べて営業しているピザ屋を見つけた。ここは、飛び入りの客でもかまわないら
しい。それを確認して、テーブルが開くのを待つ。座るまでに約30分、ボーイが注文を
とりに来るまで30分、料理が来るのには一時間以上待たねばならなかった。

 この街では、それまでずっと上機嫌で過ごしていた僕だったが、さすがにいらだちが
つのってきた。きっと、恐い顔をしていたに違いない。

 隣のテーブルの家族連れの一人が、「Are you from Japan?」と英語で話しかけて
きた。続けて、
「And you are waiting so long, aren't you?」(待ちくたびれたんだろ?)
「Yes! We are waiting for two hours.」(そうだよ!もう、2時間も待っている)
辛うじて笑顔を作ったつもりだったが、情けない顔をしていたかもしれない。すると、
彼は屈託なく笑って、
「Welcome! This is Brasil.」(これがブラジルだよ。ようこそ!)
とのたまった。
 これには、僕も相棒も、プッと吹き出した。おかげで、ささくれだっていた気分も
すっかり良くなった。

 いつの間にか路上に人が集まってきている。交通規制が敷かれて灯台からキリスト
の丘までの区間、海岸通りは歩行者天国になっているのだ。既に酔っぱらったのか、
大声で叫んでいる人もいるし、そのへんの店から聞こえる音楽に合わせて踊っている
人もいる。太鼓の響きとともに、ハレクリシュナの一団が通り過ぎていく。他の国だ
とさぞかし注目されるんだろうが、この街じゃ、大して目立たない。
 ようやくピザを腹に収めた僕たちは、人込みの中を歩きながら「カーニバルみたい
な人出やな」などと暢気なことを話していた。(3年後に、この比喩が大きな誤りだと
いうことを思い知る)

 キリストの丘のほうから、ブラスバンド隊がやってきた。ものすごい人数だ。胸に
「Feliz Ano Novo」と書いたお揃いのTシャツを着ている。群衆が歓声をあげて、
その周りに付き従う。

「なんや、普通のマーチバンドやんか」
「うん、あんましバイーアらしくないな」
やり過ごして海岸に降りてみると、路上の喧噪とはかけ離れた雰囲気が漂っていた。
 白い服を着た女性たちが、花束を海に捧げている。岩場の陰には、蝋燭の炎がいく
つも揺らいでいる。幻想的な光だ。

 しばらく、その静謐さを味わってから、再び路上へ。ガンヂーの姿はどこにもない
が、人の数も賑わいのボルテージもずいぶん上がっている。カメラを向けると、皆、
満面の笑みで応えてくれる。

 灯台のふもとに、ずいぶん人が集まっているみたいだ。行ってみよう。

 近づくと、確かに太鼓の音が聞こえる。どこのバンドだろう?あわてて人垣をかい
くぐって、音のする方に近づこうとする。人は多いが、皆さん、わりとすんなり道を
開けてくれる。
 調子に乗ってずんずん前進しているうちに、高さ1メートル程度の仮設ステージの
最前列まで出てしまった。
 おや?・・・見覚えのある顔だ。むむ?・・・スルドの女性が僕を見て笑っている。
微笑んで手を振ってくれる人もいる。
 DIDAだ!
 女奴隷をイメージしたいつもの衣装じゃなくて、今日はアイドルみたいな白地に金
ピカのラインが入ったのコスチュームだ。金ピカの、お揃いのヘアバンドまでつけて
いる。
 そうか、今年のメインは、DIDAだったのか。

 彼女たちは、簡易ステージでひとしきり演奏した後、キリストの丘に向かって行進
を始めた。取り囲んた数百人の群衆が、ぞろぞろと付き従う。太鼓部隊は生の音でも
充分だが、ヴォーカルは地声で歌う訳にはいかない。そのため、小型のトラックにア
ンプとスピーカーを積んでさらにその上にステージを作って、その上で歌っている。
これが、いわゆる「トリオ・エレトリコ」なんだな、とそのときは感心したが、本物
のトリオはもっとでかくて重装備であることを後で知った。
 カルナヴァルの時には、パーカッション部隊もコンボイの最上部にしつらえられた
ステージで演奏し、スピーカーからは地鳴りのような音色が響き渡る(耳じゃなくて、
全身の皮膚で感じ取れるほどの音量だ)けれども、この時は、ヴォーカル以外は、皆
トラックの後ろを歩きながら演奏した。

 トラックは、群衆を巻き込まないようにそろそろと前に進む。万一、タイヤが人を
巻き込んだら、大変なことになる。それなのに、周囲の群衆はお構いなしに押し合い
へし合いしている。トラックの周囲50センチの空間を確保するために、時に大声で
怒鳴りながら、誘導係が真剣な表情で走り回っている。
 裏方って大変だなあ、とつくづく感心した。
 
 もちろん、踊った。汗だくになって、踊りまくった。路上のパレードは、解放感が
いっぱいで、最高の気分だ。だけど、さすがに疲れた。ちょっと休もう....
 人込みから遠ざかるために、パーカッション隊のわきをすり抜けようとした、その
時、誰かが後ろから僕の鞄をつかんだ。ぐっと引っ張られ、倒れそうになる。
 泥棒だ!慌てて振払おうとすると、腕をつかまれた。逃げようとしたが、すごい力
だったので、振りほどけなかった。

 振り返ってカッと睨み付けると・・・帽子をかぶった大男が、白い歯を見せて笑っ
ている。なんと、ネギーニョだ。
 最初のうちは指揮をしていたのだが、途中からアドリアナ(DIDAのマエストラ/
この名前は、後に親しくなってから知った)に委ねて、離れたところから全体を見渡し
ていたらしい。
 ネギーニョは僕の腕をつかんだまま、行進しているDIDAの真ん中まで僕を引っ
張り込んだ。演奏していた力強き女神たちが、歓声をあげて迎え入れてくれる。けっ
たいな闖入者の登場に、面白がり屋のバイーア衆たちが喝采の声をあげる。もの凄い
エネルギーの波動が、周囲360度から押し寄せてくる。
 突然、百人以上の群衆の前に晒されて、わけがわからなくなった。ネギーニョが、
目で「踊れ」と合図する。DIDAのお姐さんたちも期待しているようだ。

 となると、やるしかないだろう。一度経験しているので、度胸はついている。目を
閉じ、リズムに身を委ね、頭を真っ白にして筋肉を動かす。いや、リズムが耳や脳を
通らず、じかに筋肉を動かすように、意識による制御から肉体を解き放つ。
 気持ちいい。
 僕の体の中で封印されていた「生命」が溢れ出し、自在に動き始めた。脳だけじゃ
なくて、筋肉が、神経が、血管が、細胞が、それぞれの喜びを爆発させている。時空
を越えて連綿と続く「生命」の一部として生まれ、その中に組み込まれていることを
実感する。アシェーがやってきたのだ。
 しかし、たちまち酸素が足りなくなる。体の揺れで、脳がふらふらになっていく。
倒れるかもしれないし、気を失うかもしれない。
 かまうもんか。一生に一度の体験だ。行くところまで、行っちまえ!

 気持ちをリズムに集中させて、肉体をリズムに委ねる。すうっと身が軽くなって、
全能感に包まれる。自分にできないことなんて、何もない。このまま空だって飛べる
かもしれない。

 どのくらい踊ったのか分からないが、息が上がって動けなくなるまで、その大きな
力に身を委ねた。そして、周囲に一礼して、拍手を浴びながら、群衆の輪の外に抜け
出した。グワラナーを買って一気に飲み干す。全身から汗がほとばしる。
 数人の子供が僕を追いかけてきて、じっと見つめている。
「なんだ、欲しいのか?」
 身振りで話しかけると、首を振って、にこにこ笑いながら、親指を突き出す仕種で
応えてくれる。
 そうか、僕のこと、気に入ってくれたんやね。ありがとう。
 言葉は通じないけれど、気持ちは通じるよ。

「お前、また派手なことやったなぁ。」
相棒が近づいてきて、あきれた口調で言う。
「ま、そんだけ楽しんでくれたら、連れてきた甲斐があるわな」
「おう、感謝するわ。ありがとな。おれ、病みつきになりそうや。」

 三年前の話だ。なのに、今でもくっきり覚えている。

 一週間の滞在を終え、帰国する日。ペロウリーニョの街角で、普段着のDIDAに
呼び止められた。私服だと、まったくその辺にいる普通のお姉さんたちだ。
 誰も英語を話さないし、こっちもポルトガル語はわからない。辞書を引き引き、身
振りで話す。
「キョウ、ボク、カエル。ヒコーキ。」
「ともだち、あなたの。せのたかい。」
「イマ、サンポ。ヒトリ、ヒトリ。」
こんな感じだ。
 この日も金曜日で、ライブのある日だ。彼女たちはリハーサル前の休憩時間だった
らしい。暇にまかせて、いろいろ話しかけてくる。たくさんの、しかもおしゃべりな
バイーア女性たちが、入れ代わり立ち代わり、言いたいことをしゃべりまくるので、
いちいち意味を確認することなんてできなかった。もっとも、向こうもそんなことは
気にしていないようだった。珍しい東洋人を囲んで自分たちの会話が弾めば、それで
いいのだ。
 あのチンバウの少女はいちばん若くて、なんと15才! ということがわかった。記念
にサインをねだると、「手紙を書いてね」と住所を教えてくれた。
(彼女は、現在アズ・メニーナスの一員として活躍している)

 その後、僕がポルトガル語を勉強してから再訪問した時は、かなり色々なことがら
について語ることができたのだが、この時にはほとんど意思疎通が出来なかった。
 でも、この時一つだけ、はっきり意味がわかったことがある。それは、彼女たちの、
こんな述懐だ。
「日本人、みんな、楽しまない(気難しい顔)。かたくるしい(ネクタイをきつく締める
 仕種、気をつけの姿勢)。そう思ってた。でも、あなたを見て、わかった。日本人も、
 踊る。日本人も、楽しむ。わたしたち、とても、嬉しい。」
間違いなく、そんなふうに言っていた。

 僕は、ブラジルに行く度に、かならず彼女たちに会いに行く。
 もちろん、ネギーニョにも。
 その理由は、ここまで読んでくださった皆さんなら、わかってくれるだろう。

                      モ翌年へ
                         written  by  "AXE junkie"


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