AXE ZANMAI

2004-06-30

Reveillon '98-'99


 "reveillon"というのは、手元の辞書によると大晦日を意味するようだ。しかし、
バイーアでは、ある特定のイベントを指し示すものとして使われている。それは、
バーハ灯台のふもとで毎年行なわれる恒例の音楽イベントのことで、新聞などには
"Reveillon da Barra"と固有名詞扱いで表記される。
 大晦日の夜、野外で行なわれるこの無料コンサートは、バイーア市民にとって新
年を迎えるのに欠かせない行事なのだ。僕は過去に五回ブラジルを訪れているが、
うち三回は年末年始の休暇を利用しての訪問だったので、このイベントを楽しみの
一つにしていた。


                


 この年は、サルバドール450年記念ということで、前年にもまして大がかりな準備
がなされていたようだ。何日も前からバーハ灯台のそばにドでかい時計が据え置かれ、
時を刻んでいた。去年と違って、日が暮れる頃にはアクロバットやジャグリング等を
披露する芸人や体長3メートルほどの巨人(張りぼての中で人が操っている)が出没し、
子供たちを喜ばせていた。巨人たちは、アフリカ系やヨーロッパ系、アラブ系等の顔
だちを誇張した形に作られていた。

 灯台の前に、真っ白な民族衣装で正装した、たくさんのバイアーナたちが集まって
いる。皆、会場に流れる音楽に合わせて、思い思いに踊っている。どこかから大量の
シャボン玉が流れてきて、夕日にキラキラ輝いている。
 ゆったりしたレースのスカートを膨らませて揺れているたくさんのバイアーナたち。
ワンピースも帽子も純白だが、幾重にも巻かれたビーズのネックレスは、それぞれの
オリシャを表象していて、鮮やかな原色の赤や黄や水色などだ。夕闇の中に褐色の肌
が溶けていく。幻想的で、すごく美しかった。
 ひとりひとりを追ってみると、街角でアカラジェを揚げているその辺のおばさんで、
タバコを片手に不適な笑みを浮かべていたりするのだが、いや、だからこそ、夕陽と
大西洋と灯台を背景に舞うさまは、神話的な大らかさを感じさせる。
 祝祭の神・デュオニソスに侍るのは、こんな妖精たちなのかもしれない。

 何枚も写真を撮っていると、そばにいた家族連れが「あんたも写してあげよう」と
僕のカメラを取り上げ、乱舞するバイアーナたちの前でポーズをとるように促された。
パチリ。一枚撮ったところに張りぼての巨人がそばにやってきて、一緒に撮れという
身振りをする。肩を組んで、パチリ。続いて、家族連れの中から三人姉妹がやってき
て、一緒にパチリ。

 そうこうしているうちに、今宵の主役がやってきた。純白の布を体に巻き、同じく
純白のターバンを頭に巻いた女性たちが、シェケレを掲げて先導する。幾重にも巻か
れたビーズの首飾りに加え、小さな瓢箪をたすきがけしている。
 巫女のごとくなにごとかを唱えつつ、シェケレを振ってリズムを整える。神事の始
まりを感じさせる荘厳な波動をまき散らし、先ほどまでの大らかな空気を塗り替えて
いく。

 実にアフリカ的な身のこなし、そしてリズムだ。一体なにものだろうか?
 遠巻きに眺めていると、広報係(?)の青年が一枚の布を配り始めた。ちらしみたいな
もんだろう。もらいに行って広げてみると、白地に青で"BADAUE"と書いてあり、
アゴゴーや子安貝のデザインとともに"Salvador - Bahia - Brasil"と記されていた。
 「イジェシャー*」の歌詞にもある、あのバダウェーだ。商業的なバンドではなく、
純粋なブロッコ・アフロをこの目で見るのは初めてのことだ。
 (*"Filhos de Ghandi, Badaue, Ile Aiye, Male de de Bala, Ogum Oba...."という
  歌い出しで始まる、アフロ=ブラジル文化の台頭を讃えた古い歌。クララ・ヌネス
  が有名だが、シモーネ・モレーノもカバーしている)

 儀式が一段落して、シェケレの女性たちが、ずん、と前に進むと、あとに続くのは
同じく褐色の肌のダンサーたち。50人はいるだろう。男性はゆったりした白いズボン
を穿き、お揃いの白い布を、あるものは頭に、あるものは二の腕に巻いている。上半
身は裸だ。女性たちはゆったりした白いスカートに、純白の胸当て。白い布以外には、
アクセサリーは何もない。
 そのシンプルないでたちが、なんとも言えずカッコ良かった。

 
to be continued....
                            written by "AXE junkie"




Reveillon '97-'98

 "reveillon"というのは、手元の辞書によると大晦日を意味するようだ。しかし、
バイーアでは、ある特定のイベントを指し示すものとして使われている。それは、
バーハ灯台のふもとで毎年行なわれる恒例の音楽イベントのことで、新聞などには
"Reveillon da Barra"と固有名詞扱いで表記される。
 大晦日の夜、野外で行なわれるこの無料コンサートは、バイーア市民にとって新
年を迎えるのに欠かせない行事なのだ。僕は過去に五回ブラジルを訪れているが、
うち三回は年末年始の休暇を利用しての訪問だったので、このイベントを楽しみの
一つにしていた。


                


 初めてのブラジル、憧れのバイーア。到着したのは金曜の午後で、30時間の空の
旅と12時間の時差で頭も体もふらふらだった。だが、バイーア訪問3回めの相棒は、
眠ってはいけないという。毎週金曜の夜は、DIDAのライブがあるというのだ。
 僕はこのとき、DIDAのことなんて全く知らなかった。できたばかりのバンド
で、いわばオロドゥンの女性版だと説明されても、あの激しいパーカッションを女
性の細腕で真似ようなんて無謀だな、ぐらいにしか思わなかった。

 夕暮れ時、テレーザ・パチスタのステージ前で手持ち無沙汰に開始を待った。開
始時間どおりに入場したのに、人はまばらだった。やがて、闇が天空を覆うころ、
ステージ前の広場に白い服を着た少女たちが現れた。少女たちはシェケレ、アゴゴ、
アタバキなどのアフロっぽい楽器が生み出すビートに乗って、熱く激しく、そして
なによりも美しく、僕たちの前で舞っていた。僕はただ、口を開けたまま、呆然と
それを眺めるほかはなかった。

 バイーアにはチンバラーダとシモーネ・モレーノだけじゃないという真実を、こ
のとき初めて知った。(これは、ネギーニョの創設したDIDA音楽学校のダンサ・
アフロ部門の生徒たちがつとめた「前座」だったようだ)

 我に返る間もなく、DIDAの演奏が始まった。パンチの効いた声、鋭いビート、
溢れるエネルギー……。なんてこった!まだCDの一枚さえ出していない、音楽学
校の女の子(とは言い難い年齢の人もいたようだが....)たちが、こんなに迫力ある、
レベルの高い演奏を聴かせてくれるとは!

 僕は、我を忘れて踊りまくった。生の音色が気持ち良い。ステージの奥にスルド
系の、安定したリズムを奏でる大型太鼓が並び、右と左にチンバウ(スティックを
使わないで手で叩く太鼓/チンバラーダの語源)担当の女性が一人ずつ、そして正面
にマイクスタンドが数本、曲ごとにヴォーカルが入れ代わって歌い続ける。ヘピー
キ隊がその横で鋭く切れ込んでくる。何曲も、何曲も、怒涛のリズムが押し寄せる。
ステージの下では、群衆たちが狂い始める。なんて熱さだ!

 熱いのはステージの上だけじゃない。日本では経験できない聴衆のノリ、そして
終了時間を気にしない、リラックスした空気。ハジけまくる群衆に煽られて、僕は
すっかり舞い上がってしまった。

 ステージの上から、見慣れないチビの東洋人が滅茶苦茶なステップで狂ったよう
に踊っているのが、よく見えたらしい。何人かが、演奏しながらこっちを指差して
くすくす笑っている。舞い上がってしまっていた僕は、ニコニコと手を振って応え
る。ステージ上の彼女たちも、演奏の合間に僕に手を振ってくれる。

 人込みを掻き分けて、ステージのすぐ下まで近づき、ひとり一人の演奏を聞き分
けてみた。その結果、端っこでチンバウを叩いている小柄で痩せた女の子(子供みた
いに見えた。まさか?)の音色とリズムが、いちばん気持ち良く踊れるノリだという
ことがわかった。それからは、ひたすら彼女のチンバウに合わせて、無心になって
踊った。

 どのくらい経ったのだろう.....何時まで続くのだろう......そんなバイーア体験の、
これが一回目だった。大阪で踊ったチンバラーダは、僕の体力が尽きそうな頃に、
主催者かホールの都合でフィナーレを迎えた。だが、ここバイーアでは、いつまで
たっても終わりそうにない。人々は、無限のエネルギーに支えられて踊り続ける。
息があがった僕は、ステージ横にわずかに空いていたスペースにへたり込んで、何
度も休憩した。チンバウの女の子が、そんな僕を見とがめるように、こっちを見な
がら激しいリズムで挑発する。畜生!なんて熱いんだ!そう呟きながら、最後の一
滴を絞り出すようにして、それに応える。

 そんなふうにして、相棒がいたことさえ忘れてはしゃいでいたが、ものごとには
いつか終わりがやってくる。日付けが変わった頃に、突然演奏が終わって、人々が
出口に向かいはじめた。「え?終わったの?」そんな感じだった。

 DIDAのお姉さんたちが、それぞれの太鼓を抱えてステージを降りる。ぼんや
りそれを眺めていると、どうも様子がおかしい。野球帽の後ろから束ねた髪を伸ば
した巨漢(彼が"サンバ=ヘギ"を提唱したネギーニョだとは、まだ知らなかった)が、
なにやら指図をしている。

 人がまばらになったステージの下で、またもや演奏が始まった。太鼓だけの編成
で、演奏しながらゲートの外へ出ていく。大音響のパレードを聞きつけて、附近を
歩いていた観光客や地元の若者、子供たち(こんな夜中に何をしているんだ?!)が集
まってきた。ペロウリーニョの狭い石畳の道に、たちまち人だかりができる。その
中を突っ切るように、DIDAの太鼓部隊が練り歩く。太鼓の響きが天空まで立ち
上ってゆく。

 彼女たちは、DIDA音楽学校のそばまで歩くと、一人ずつ30秒ぐらいソロを
やってから、ドアの向こうへ消えていった。周囲を取りかこむ群衆たちが拍手で
それを見送る。

 最後の一人が、チンバウのあの少女だった。

 彼女がソロをとり始めた時、知らないうちに僕は人垣のど真ん中、つまり彼女の
真正面に飛び出して、彼女のリズムに合わせて狂ったように踊っていた。 自分でも
何が起こったのかわからなかった。
 気づいたらそこでそうしていた。誰よりも自分がそのことに驚いていた。

 群集はやんやの喝采。ネギーニョが指示したのか、彼女はなかなかソロをやめよう
としない。僕は息が上がって苦しくて「死ぬ、死ぬ...」と思いながら必死の無酸素
運動でステップを踏み続けた。

 ようやく彼女が引っ込んだあと、ゼイゼイ言いながらぶっ倒れている僕に、裸足の
子供たちが、親指を立てて笑顔を向けてくれた。
 後で相棒から「おまえ、なあ…」とあきれられたけど、いい思い出になった。

 そんなふうにして始まった初めてのバイーア、何もかもが新鮮で、心を揺さぶられた。
すっかり浮ついてしまい、日本の友人にこんな絵葉書を書いたりもした。
「僕は今天国に来ています。空も街も人も、すべてがキラキラと輝いています。僕は
 もう脳みそがとろけてしまって、まともな文章なんて書けません。帰りたくない。」

・・・そうそう、大晦日のことを書かなければならない。こんなふうに書いてたんじゃ、
いつまで経っても終わりっこない。いろんな出来事を割愛して、1997年の12月31日に
飛ぶことにしよう。

 相棒が街で拾ってきた情報によると、バーハという海岸の方に、フィーリョス・ヂ・
ガンヂーが現れるらしい。そして、海に花束を捧げたり砂浜に蝋燭をともしたりして、
新年を祝うということだった。たくさんの人が白い服を着て集まるのだとか。

 なんだか荘厳そうだ。夕暮れを待たずして、行ってみようということになった。

 しかし、海岸に着いてみると人影はまばらで、何も起こりそうな気配がしない。夕食
をとろうと思っても、開いている店は全て貸し切りか予約客オンリーで、まったく相手
にしてもらえない。うろつきまわるうちに日が暮れてきた。

 なんてこった、ペロのホテルに帰ろうか、などと考えだした頃に、公道に堂々とテー
ブルを並べて営業しているピザ屋を見つけた。ここは、飛び入りの客でもかまわないら
しい。それを確認して、テーブルが開くのを待つ。座るまでに約30分、ボーイが注文を
とりに来るまで30分、料理が来るのには一時間以上待たねばならなかった。

 この街では、それまでずっと上機嫌で過ごしていた僕だったが、さすがにいらだちが
つのってきた。きっと、恐い顔をしていたに違いない。

 隣のテーブルの家族連れの一人が、「Are you from Japan?」と英語で話しかけて
きた。続けて、
「And you are waiting so long, aren't you?」(待ちくたびれたんだろ?)
「Yes! We are waiting for two hours.」(そうだよ!もう、2時間も待っている)
辛うじて笑顔を作ったつもりだったが、情けない顔をしていたかもしれない。すると、
彼は屈託なく笑って、
「Welcome! This is Brasil.」(これがブラジルだよ。ようこそ!)
とのたまった。
 これには、僕も相棒も、プッと吹き出した。おかげで、ささくれだっていた気分も
すっかり良くなった。

 いつの間にか路上に人が集まってきている。交通規制が敷かれて灯台からキリスト
の丘までの区間、海岸通りは歩行者天国になっているのだ。既に酔っぱらったのか、
大声で叫んでいる人もいるし、そのへんの店から聞こえる音楽に合わせて踊っている
人もいる。太鼓の響きとともに、ハレクリシュナの一団が通り過ぎていく。他の国だ
とさぞかし注目されるんだろうが、この街じゃ、大して目立たない。
 ようやくピザを腹に収めた僕たちは、人込みの中を歩きながら「カーニバルみたい
な人出やな」などと暢気なことを話していた。(3年後に、この比喩が大きな誤りだと
いうことを思い知る)

 キリストの丘のほうから、ブラスバンド隊がやってきた。ものすごい人数だ。胸に
「Feliz Ano Novo」と書いたお揃いのTシャツを着ている。群衆が歓声をあげて、
その周りに付き従う。

「なんや、普通のマーチバンドやんか」
「うん、あんましバイーアらしくないな」
やり過ごして海岸に降りてみると、路上の喧噪とはかけ離れた雰囲気が漂っていた。
 白い服を着た女性たちが、花束を海に捧げている。岩場の陰には、蝋燭の炎がいく
つも揺らいでいる。幻想的な光だ。

 しばらく、その静謐さを味わってから、再び路上へ。ガンヂーの姿はどこにもない
が、人の数も賑わいのボルテージもずいぶん上がっている。カメラを向けると、皆、
満面の笑みで応えてくれる。

 灯台のふもとに、ずいぶん人が集まっているみたいだ。行ってみよう。

 近づくと、確かに太鼓の音が聞こえる。どこのバンドだろう?あわてて人垣をかい
くぐって、音のする方に近づこうとする。人は多いが、皆さん、わりとすんなり道を
開けてくれる。
 調子に乗ってずんずん前進しているうちに、高さ1メートル程度の仮設ステージの
最前列まで出てしまった。
 おや?・・・見覚えのある顔だ。むむ?・・・スルドの女性が僕を見て笑っている。
微笑んで手を振ってくれる人もいる。
 DIDAだ!
 女奴隷をイメージしたいつもの衣装じゃなくて、今日はアイドルみたいな白地に金
ピカのラインが入ったのコスチュームだ。金ピカの、お揃いのヘアバンドまでつけて
いる。
 そうか、今年のメインは、DIDAだったのか。

 彼女たちは、簡易ステージでひとしきり演奏した後、キリストの丘に向かって行進
を始めた。取り囲んた数百人の群衆が、ぞろぞろと付き従う。太鼓部隊は生の音でも
充分だが、ヴォーカルは地声で歌う訳にはいかない。そのため、小型のトラックにア
ンプとスピーカーを積んでさらにその上にステージを作って、その上で歌っている。
これが、いわゆる「トリオ・エレトリコ」なんだな、とそのときは感心したが、本物
のトリオはもっとでかくて重装備であることを後で知った。
 カルナヴァルの時には、パーカッション部隊もコンボイの最上部にしつらえられた
ステージで演奏し、スピーカーからは地鳴りのような音色が響き渡る(耳じゃなくて、
全身の皮膚で感じ取れるほどの音量だ)けれども、この時は、ヴォーカル以外は、皆
トラックの後ろを歩きながら演奏した。

 トラックは、群衆を巻き込まないようにそろそろと前に進む。万一、タイヤが人を
巻き込んだら、大変なことになる。それなのに、周囲の群衆はお構いなしに押し合い
へし合いしている。トラックの周囲50センチの空間を確保するために、時に大声で
怒鳴りながら、誘導係が真剣な表情で走り回っている。
 裏方って大変だなあ、とつくづく感心した。
 
 もちろん、踊った。汗だくになって、踊りまくった。路上のパレードは、解放感が
いっぱいで、最高の気分だ。だけど、さすがに疲れた。ちょっと休もう....
 人込みから遠ざかるために、パーカッション隊のわきをすり抜けようとした、その
時、誰かが後ろから僕の鞄をつかんだ。ぐっと引っ張られ、倒れそうになる。
 泥棒だ!慌てて振払おうとすると、腕をつかまれた。逃げようとしたが、すごい力
だったので、振りほどけなかった。

 振り返ってカッと睨み付けると・・・帽子をかぶった大男が、白い歯を見せて笑っ
ている。なんと、ネギーニョだ。
 最初のうちは指揮をしていたのだが、途中からアドリアナ(DIDAのマエストラ/
この名前は、後に親しくなってから知った)に委ねて、離れたところから全体を見渡し
ていたらしい。
 ネギーニョは僕の腕をつかんだまま、行進しているDIDAの真ん中まで僕を引っ
張り込んだ。演奏していた力強き女神たちが、歓声をあげて迎え入れてくれる。けっ
たいな闖入者の登場に、面白がり屋のバイーア衆たちが喝采の声をあげる。もの凄い
エネルギーの波動が、周囲360度から押し寄せてくる。
 突然、百人以上の群衆の前に晒されて、わけがわからなくなった。ネギーニョが、
目で「踊れ」と合図する。DIDAのお姐さんたちも期待しているようだ。

 となると、やるしかないだろう。一度経験しているので、度胸はついている。目を
閉じ、リズムに身を委ね、頭を真っ白にして筋肉を動かす。いや、リズムが耳や脳を
通らず、じかに筋肉を動かすように、意識による制御から肉体を解き放つ。
 気持ちいい。
 僕の体の中で封印されていた「生命」が溢れ出し、自在に動き始めた。脳だけじゃ
なくて、筋肉が、神経が、血管が、細胞が、それぞれの喜びを爆発させている。時空
を越えて連綿と続く「生命」の一部として生まれ、その中に組み込まれていることを
実感する。アシェーがやってきたのだ。
 しかし、たちまち酸素が足りなくなる。体の揺れで、脳がふらふらになっていく。
倒れるかもしれないし、気を失うかもしれない。
 かまうもんか。一生に一度の体験だ。行くところまで、行っちまえ!

 気持ちをリズムに集中させて、肉体をリズムに委ねる。すうっと身が軽くなって、
全能感に包まれる。自分にできないことなんて、何もない。このまま空だって飛べる
かもしれない。

 どのくらい踊ったのか分からないが、息が上がって動けなくなるまで、その大きな
力に身を委ねた。そして、周囲に一礼して、拍手を浴びながら、群衆の輪の外に抜け
出した。グワラナーを買って一気に飲み干す。全身から汗がほとばしる。
 数人の子供が僕を追いかけてきて、じっと見つめている。
「なんだ、欲しいのか?」
 身振りで話しかけると、首を振って、にこにこ笑いながら、親指を突き出す仕種で
応えてくれる。
 そうか、僕のこと、気に入ってくれたんやね。ありがとう。
 言葉は通じないけれど、気持ちは通じるよ。

「お前、また派手なことやったなぁ。」
相棒が近づいてきて、あきれた口調で言う。
「ま、そんだけ楽しんでくれたら、連れてきた甲斐があるわな」
「おう、感謝するわ。ありがとな。おれ、病みつきになりそうや。」

 三年前の話だ。なのに、今でもくっきり覚えている。

 一週間の滞在を終え、帰国する日。ペロウリーニョの街角で、普段着のDIDAに
呼び止められた。私服だと、まったくその辺にいる普通のお姉さんたちだ。
 誰も英語を話さないし、こっちもポルトガル語はわからない。辞書を引き引き、身
振りで話す。
「キョウ、ボク、カエル。ヒコーキ。」
「ともだち、あなたの。せのたかい。」
「イマ、サンポ。ヒトリ、ヒトリ。」
こんな感じだ。
 この日も金曜日で、ライブのある日だ。彼女たちはリハーサル前の休憩時間だった
らしい。暇にまかせて、いろいろ話しかけてくる。たくさんの、しかもおしゃべりな
バイーア女性たちが、入れ代わり立ち代わり、言いたいことをしゃべりまくるので、
いちいち意味を確認することなんてできなかった。もっとも、向こうもそんなことは
気にしていないようだった。珍しい東洋人を囲んで自分たちの会話が弾めば、それで
いいのだ。
 あのチンバウの少女はいちばん若くて、なんと15才! ということがわかった。記念
にサインをねだると、「手紙を書いてね」と住所を教えてくれた。
(彼女は、現在アズ・メニーナスの一員として活躍している)

 その後、僕がポルトガル語を勉強してから再訪問した時は、かなり色々なことがら
について語ることができたのだが、この時にはほとんど意思疎通が出来なかった。
 でも、この時一つだけ、はっきり意味がわかったことがある。それは、彼女たちの、
こんな述懐だ。
「日本人、みんな、楽しまない(気難しい顔)。かたくるしい(ネクタイをきつく締める
 仕種、気をつけの姿勢)。そう思ってた。でも、あなたを見て、わかった。日本人も、
 踊る。日本人も、楽しむ。わたしたち、とても、嬉しい。」
間違いなく、そんなふうに言っていた。

 僕は、ブラジルに行く度に、かならず彼女たちに会いに行く。
 もちろん、ネギーニョにも。
 その理由は、ここまで読んでくださった皆さんなら、わかってくれるだろう。

                   
                         written by "AXE junkie"


2004-03-06

子供たちの明日

 ゆうべ、じゃなくて今朝はコルテージョで踊り狂い、その後、夜明けの海があまりに
美しかったのをボーッと眺めていたために、結局二時間ぐらいしか眠っていない。全身
の筋肉痛と足の裏の血マメは悪化するばかりで、歩いているだけでゲロを吐きそうな気
分だ。
 しかし、休んじゃいられない。今日は、午前10時からカンポ・グランジ発のSODOMO
のパレードがあるのだ。NHKも注目しているマルシオ君たちの晴れ姿を見逃すわけには
いかない。

 10時過ぎにバスで会場にたどり着いたが、そこはひっそりと静まりかえっていた。
何人かの人に、SODOMOはどこにいるのかと尋ねてみたが、要領を得ない。なにしろ、
名前のとおり恐ろしく広い公園なのだ。おまけに普段と違ってフェンスが張り巡らされて
いて、見通しがきかない。ふと思いついて、DIDAはどこかと尋ねなおすと、
「DIDAなら、あのフェンスの向こうにいるよ」
と教えてくれた。同じネギーニョの率いるバンドだが、知名度が違うのだ。
 フェンスの向こうには白く塗られたトリオが停まっていた。車体に大きく「minha
escola e meu futoro(私の学校と私の未来)」という文字と教科書の絵が大きく描かれて
いる。きっとこの車だ。
 トリオの上にいたDIDAのお姐さんたちが僕に気づいて手を振ってくれる。
「いつごろ出発するの?」
「さあね。たぶん、昼過ぎよ。」
ということは、あと1時間以上待たなくてはならない。既に日射しがきつく、足元から
立ちのぼる熱気に頭がくらくらする。とりあえず、木陰を探して待機しよう。

 NHKのカメラ担当の方が通りかかり、僕に事情を教えてくれた。SODOMOの出番は
午前の部の二番目なのだが、一番目のバンドがまだ準備中なのだという。話している間に、
可愛い衣装を身につけた子供たちが少しずつ集まってきた。
 10分、20分と何の変化もないまま時間だけがすぎていく。カルナヴァルだというのに、
あたりは妙に静かだ。現場に到着したときには笑顔を見せていた子供たちも、炎天下で
さんざん待たされて、さすがにうんざりしている。こんなふうにテンションを下げたままで
パレードに臨むのかと思うと、僕までがイライラしてきた。

 NHKのスタッフに「今日の天気、どうなりますか」と聞かれた通訳氏が「昼過ぎに
雨になる」と断言した。早く出発しないと、中止になるかもしれない。
 本部と交渉していたネギーニョが戻ってきたようだ。スタッフにあれこれ指示を出して
いる。NHK取材班がすぐさま彼を取り囲み、カメラを向ける。混乱した現場でぴったり
貼り付かれて、さすがにちょっとうんざりしているようだった。

 そのネギーニョが、こっちを見てニコリと笑い、近づいてきた。木陰で待ちくたびれて
いる子供たちに何かを伝えに来たのかと思ったら、僕の姿を見つけてわざわざ握手しに来て
くれたのだった。
ちょっと恐縮したけれど、すごく嬉しかった。

 どうやら一番目のバンドが出発を取り止め、SODOMOが繰り上げ出動するようだ。
どこから集まってくるのか、みるみるうちに人数が膨れ上がる。カピタンの衣装をつけた
大人やインヂオの民家らしい小屋を載せた山車など、ブラジル500年の歴史を意匠にした
組み立てであることが見てとれる。子供たちも、アフリカ系のデザインの衣装やインジオ
ぽいコスチュームのチームに別れてグループを作っていた。ネルソン・マンデラやマルコム
X、キング牧師の写真も見える。パレードそれ自体が一つの教育の場となっているようだ。
 
 出発の準備が整った時点で12時はまわっていたと思う。蒸し暑さの中で、スタッフの
動きも子供たちの表情もやけに緩慢だった。炎天下、あれだけ待たされたんじゃ、無理も
ない。
 「盛り上げなくちゃ」と覚悟を決めて、DIDAの演奏が始まるとすぐに、それに合わ
せてトリオのすぐ横で踊った。トリオの上でDIDAのお姐さんたちが笑っている。彼女
たちは僕が滅茶苦茶なステップで踊るを見るのがお気に入りなようで、「もっとやれ」と
煽ってくる。

 子供たちはまだテンションが低いまま、くたびれた顔でぞろぞろと歩いているが、何人か
の観客が僕のそばにやってきて、一緒に踊ってくれた。しばらく進むと、メイン会場の本部
席となっているカマロッチがあり、ここには一般客は入れない。
 ゲートが開けられた。SODOMOのみんながトリオと一緒に中に入っていくのを見送り、
遠回りをして出口ゲートの外で待つ。中では、リオでやってるみたいに審査が行なわれて
いるのかもしれない。

 突然、大粒の雨が落ちてきた。ゲートの周りにいた観衆が、雨宿り出来る場所を求めて
散り散りになる。そして、軒下から恨めしそうに空を見上げる。簡単にはやみそうにない
空模様だ。やっと出発したかと思ったら、土砂降りとは。。。天は、どうしてこうも無情
なのだ!

 僕もいったん軒下に避難したが、ゲートが開いてSODOMOが路上に繰り出すのを見て
一緒に路上に飛び出した。

 路上に観客の姿はほとんどない。だが、子供たちは雨なんかに負けてはいなかった。逆に、
この雨で生き返ったかのように、輝きを放ち始めていた。トリオの上のステージで、7才ぐ
らいの少年がマイクを握り、堂々と歌っている。
「僕たちの学校、僕たちの明日...」
繰り返されるこのフレーズに、この国の子供たちの多くが学校に行きたくても行けない事情
を抱えていることを思い起こす。日本では登校拒否なんてのが表面化しているが、こっちで
は状況が全く違うのだ。

 しばらくすると雨がやんで、今度は強烈な太陽が照りつける。汗がどっと流れ出てくる。
意識が朦朧としてくる。自分の体調がつかめない。3秒後には路上に突っ伏してゲロを吐く
かもしれないし、このまま二時間ぐらいぶっとおしで踊り続けることができるかもしれない。
意識とは別に、体だけがリズムに反応している。
 それにしても、炎天下の行進は、夜とは違ったキツさだ。とにかく、足が痙攣して動けなく
なるまで踊りつづけよう。

 子供たちの笑顔が眩しい。見知らぬ東洋人がロープの外で応援しているのを見つけて手を
振ってくれる。喜びと解放感が溢れ、歓喜のウェイヴを発散している。雨が上がったので、
沿道のギャラリーも増えた。ビルの窓から、笑顔で応援している大人たちもたくさんいる。
このパレードに参加した子供たちは、自分たちが街の主人公になった日のことをきっと忘れ
ないだろう。

 奇妙な巨漢と出会った。彼は上半身裸の黒い肌に白い幾何学模様をペインティングして
いて、なぜか鼻だけ真っ赤に塗りつぶしている。カシャーサをラッパ飲みして、瓶をその
へんに放り投げると血走った眼で僕を睨みつけ、近づいてきた。嫌な感じがした。

 男は両腕を上げてファイティングポーズを見せた。太鼓腹で動きは鈍そうだが、あの太い
腕で殴られたらひとたまりもないだろう。体重は、僕の三倍ぐらいありそうだ。血走った目
で、戦意をあらわにして僕を睨みつけている。

 いったい何の恨みがあるっていうんだ、このヨッパライめ。恐怖とアドレナリンがふつ
ふつとこみあげてくる。だけど、こっちだって頭に血が昇っている。
 なめられて、たまるか。
 勝ち目はないが、逃げ出すのも嫌だった。男はまっすぐ僕に向かって近づいてくる。僕は
何の考えもないまま、両手を広げて「勘弁しろよ」と日本語で話しかけた。

 男は僕の1メートル手前で立ち止まり、急に表情をやわらげた。どうやら害意はないよう
だが、眼はすわったままだ。かなり酔っているらしい。何を考えているのか、さっぱり読め
ない。
 突然、右手を差し出して握手を求めてきた。それに応じると、恭しく頭を下げて、僕の
右手の甲にブチュッとキスをした。

 何なんだ、こいつ。

 キモチ悪さを堪えてにっこり笑い、「チャオ」とだけ言ってその場を離れた。男の唇の
感触がなまなましかった。あんな挨拶をされたのは初めてだ。ブラジルの習慣というわけ
ではないだろう。

 後を追ってこないかどうか不安に思いつつも振り返らず、トリオの反対側にまわって
やりすごそうと思った。

 そのとき、突然ある考えが浮かんだ。

 カルナヴァル。人々の歌や踊りはオリシャに捧げられる。悪戯好きのオリシャたちは、
異形の群衆に紛れて地上に降り立ち、ともに喜びを分かち合う。だとすると、あの目つき
の異様な大男は、オリシャの化身ではないのか。あるいは、オリシャが彼に憑移して、
僕に何らかメッセージを送ろうとしていたのではないだろうか。

 だとすれば、あれはきっとエシュの仕業に違いない。

 路神エシュ。またはエレグア。ブードゥー教の儀式の際、最初に鶏を捧げられるオリシャだ。
以前、キューバのあるバンドが「エレグアに捧げる雛鶏」という曲を演奏するために、観客の
一人をステージに上げて、清めの儀式をしてみせたことがある。
 五百人ぐらいいた観客の中から選ばれたのは、僕だった。それが偶然だったのか、どうか。
 衆目の中で行なわれた簡略な儀式だったにもかかわらず、僕は訪れた「ちから」の強烈さに
押し流されて、あっけなく失神してしまったのだった。

 もう一度会いたいと思っていた。カルナヴァル喧噪の中でなら、再会しても不思議ではない。
 エシュのシンボル・カラーは黒と赤。あの黒人の大男は、赤い絵の具を塗っていた。しかも、
今日は月曜日!エシュの現れる日だ。

 今振り返ると、荒唐無稽な連想だが、街ぜんたいにhollyな空気が漲っていたあの日、僕は
そう確信して、立ちすくんだ。僕は千載一遇のチャンスを逃してしまったのだ。
 せっかく姿を現してくれたのに、なんてこった。それにしても、エシュは僕に何を伝える
つもりだったのだろう。
「もう少し、とっつきやすい姿で現れてくれよな。」
声に出して、そう呟いた。

 一度立ち止まってしまったので、もう踊る元気は残っていない。座って休もう。
 商店の入り口の扉が開いていて、そこに10才ぐらいの少年が腰かけているのが見えた。隣に
もう一人座れるぐらいのスペースが空いていた。少年がにっこり笑って「どうぞ」という仕種
をした。少年は、上半身は裸で下は半ズボンに裸足だった。きっとホームレスなのだろう。
 裸足の子供を見ると、つい避けてしまう。小銭をねだられることが多いからだ。が、立って
いるのもつらいほど疲労困憊していた僕は、誘いに応じて彼の隣に腰かけた。

 少年は、僕に向かって右手を差し出した。小銭ではなく、握手を求めているようだった。
妙にきれいな顔をした子供だな、と思いつつ握手に応じると、さっきの巨漢と同じような仕種
で僕の右手に唇をつけた。

 この少年は、エシュだ! 姿を変えて、また現れたのだ。

 意識が遠のいていく。僕は一体どうすれば良いんだ?

 すべての音が鳴りやみ、世界を沈黙が覆った。

「ジャポネーズ! ヘイ、ジャポネーズ!」
 誰かが僕を呼んでいる。顔を上げると、パレードの指揮をしている黒人男性が大声で僕に
こう言った。
「ネギーニョがあんたを呼んでいるぞ。ほら。」
指さす方に目をやると、トリオの上でネギーニョが手を振っている。そして、ロープの中に
入って踊れ、という仕種を見せた。
「アバダーを着ていないけど、かまわないのか?」
身ぶりでそう答えると、彼はわかったと頷いて、親指を立てた。
 一人の若者がトリオから飛び出してきた。手に、小さな包みを持っている。
「これをあんたに渡してくれって、ネギーニョが。」
もらった包みを開いてみると、SODOMOのスタッフ用Tシャツが入っていた。

 僕はそれを受け取るとすぐさま身につけて駆け出した。子供たちの歓喜の輪の中に入って、
滅茶苦茶に体を動かした。子供たちはそれを見て歓声を上げ、一緒になって飛び跳ねてくれた。
太陽が僕たちを照らしていた。不思議なことに、いくら踊っても疲れなかった。

 裸足の少年のことを思い出したのは、パレードの最終地点、カストロ・アルビス広場に到着
した後だった。アスファルトの上に大の字に寝っ転がって呼吸を整えながら、たぶんエシュは
僕に祝福を与えてくれたのだろうと勝手に解釈した。

 カルナヴァルは単なる乱痴気騒ぎではない。聖なる空間を現出し、聖なるものと交歓する
ための荘厳なる儀式でもあるのだ。


2000年3月6日(seg.)




2004-03-05

ブロッコ・アフロの逆襲

 
 ダニエラのステージを堪能しているとき、空から大粒の雨が落ちてきた。この季節、
夏の終わりにはにわか雨がとても多い。そのせいで出発が遅れるブロコもあるし、場
合によってはパレードが中止になるという。だが、女王ダニエラも彼女の信奉者たち
も、少しもひるまずハジけつづけている。
 今日は、深夜12:00からコルテージョ・アフロの最後のパレードがあり、それに参
加することをサンドラさんと約束している。そろそろ引き返して、ひと休みしておこう。
 ホテルに帰って熱いシャワーを浴びて、しばしまどろむ。すぐそばに宿があるので、
こういうとき助かる。11時をまわったころ、サンドラさんから電話があった。「プロ
グラムの進行が遅れている。待ち合わせ時間を午前2:30に変更しよう」ということだっ
た。Oさんのマンションは出発地点のすぐそばで、部屋からパレードの進み具合が把
握できるのだ。
 それまで眠っておこうと思ったが、もったいなくて、やっぱり寝ていられない。
雨が小降りになったのを見はからって、もう一度表通りに出てみる。もう深夜だが、人
出は少しも減っていない。人込みを掻き分けて進み、見上げるとそこにマルガレッチ・
メネーゼスがいた。周囲にマネキン色に塗りたくられた筋肉男たちを侍らせて、ダイ
ナミックに飛び跳ねながら歌っている。「エーリ、エリ、エレリ、オーオーオーオ
ー」・・・女性にしては野太い声が力強く響く。
 バイーアのミュージシャンたちは、他のバンドの持ち歌を歌うことに何の抵抗もな
く、また、ほかの歌手が自分の曲をカバーすることを決して嫌がらないようである。
アルバム作りや普段のライブのときもそういう傾向が強いが、カルナヴァルの期間は
特にそれが目立つ。結果として流行りの曲は様々なバンドで歌われ、いやでも人々の
耳にこびり着く。今年一番多く聞いたのはチンバラーダの「ゾハ」で、そのほか「ファ
ラオ」「ハプンゼル」など近年のヒット曲がカルナヴァル定番ソングとしてあちこち
のトリオでしょっちゅう歌われていた。マルガレッチもご多分にもれず、これらの曲
を連発して喝采を浴びていた。今夜のプログラムにはマルガレッチの名前がなかった
から、今日は飛び入りで参入したようだ。それを目の前で見られたのはラッキーだった。
 また雨脚が強くなってきた。コルテージョの衣装を着た人を見つけたので話しかけ
てみると、この雨で中止になるかもしれないと言っていた。大丈夫だろうかと気にし
つつ、もう一度ホテルに戻ってコルテージョの衣装に着替える。
 Oさんのマンションはエレベーターが故障中で、7階まで歩いて上がるのに目眩を
覚えた。体がくたびれているだけでなく、深夜というのにすごい蒸し暑さなのだ。部
屋にはサンドラさんだけでなくOさんの友だちの日本人客二人が居候中で、かなり手
狭になっている。開け放した窓から、路上の音がよく聞こえる。
 「下には、コルテージョのアバダーを着た人なんてほとんどいなかった。今日は雨
だし、中止かなあ」
 「一昨日のコルテージョは、結局、午前3時ごろに出発したけど、この天気じゃ、
中止かもしれませんね」
そんなことを話しながら、心の片隅で「中止でもいいや。これ以上踊ったら本当にブッ
倒れちゃう」と考えていた。
 日本から来たばかりのお二人はいずれも会社員で、当然長期休暇はとれず、それで
も3泊5日だか5泊7日だかの強行軍でやってきたそうだ。お二人ともブラジル音楽
に非常に詳しく、ポルトガル語も達者なようだ。雑談をするうちにそのうちの一人が
かの有名な「ブラザー・チンバ」略してブラチンのメンバーであることが判明した。
(ブラチンは主に関東で活躍しているバイーア音楽のグループである)
 「僕、大阪のアメ村でライブをされた時、行きましたよ。」
 「それじゃ、初対面じゃないですね。俺、そこで演奏しましたよ。」
なんとまあ、世界は狭いことか。いや、我々が世界の狭いところに好んで首を突っ込
んでいる、というほうが正確かもしれない。
 いずれにせよ、またまた素敵な人たちと出会うことができた。これもまた、バイー
ア・マジックのなせる業だろう。
 外は大雨のようだ。しばらく待ったがやみそうにない。トリオの奏でる大音響も聞
こえてこない。どうやら今晩のプログラムは終了してしまったようだ。
 「そろそろ失礼します。明日の朝、ネギーニョ率いるSODOMOのパレードに参
加しなくちゃいけないし・・・」そう言って立ち上がったとき、静寂をつんざいてファ
ンファーレが鳴り響いた。僕以外の四人も、いっせいに立ち上がった。
 「コルテージョだ。間違いない。」
カメラの仕度をしている部屋のあるじを置き去りにして、われ先に階段を駆け下りる。
お世話になっているOさんを放って出ていくなんて失礼なことだが、ファンファーレ
に続いて打ち鳴らされた太鼓の刺激音に、みんな心を奪い取られてしまったのだ。浮ノ出ると、白い衣装を着た一団が行進を始めている。トリオはなく、楽器を手にした
人々を先頭に、百人程度のこぢんまりとした集団が自分たちの足で歩んでいる。つま
り、巨大スピーカー抜きの100%アコースティック・サウンドだ。パーカッション部
隊の小気味いい音が夜空に鳴り響く。エレキ・サウンドとは異なる、手作りの音が夜
の底を揺さぶっている。
 僕はまだカンドンブレの儀式に立ち会ったことがないが、テヘイロにはきっとこん
な空気が満ちているのだろう。遠くアフリカから伝えられてきたリズムがダイレクト
に脳髄を直撃する。
 これぞ、ブロッコ・アフロの真骨頂。
 僕と、Oさんの客人たちはサンドラさんのバイーア風ダンスをまねて足を踏み出し、
体をひねる。両手と肩と腰の動きが大きくて体力を要するダンスだが、リズムに合わ
せてダイナミックに動くものだから、はまるとすごく気持ちがいい。まわりにいた人
たちも、サンドラさんの動きに合わせて踊り始めた。出会ったばかりの人たちと、こ
んなふうに呼吸を合わせて踊るのはとても新鮮な体験だった。奏でられている音楽も、
思いっきりアフロっぽくて新鮮だった。ベーシックなリズムパターンを繰り返すだけ
なのだが、リズムが皮膚の上を通り過ぎないで、体内に浸透してくる感じなのである。
その結果、リズムとともに異空間に滑り込んでいくような錯覚がもたらされて、時間
と空間から解放された気分になる。初めて聞く音楽なのに、懐かしささえ感じさせる。
きっと、意識の原初的な部分に直接響くリズムなんだろう。たぶん、この街の人々の
祖先たちが、奴隷の境遇からそうやって一時的に解放されるすべを伝承してきたのだ
ろう。
 この時間、路上にいたのは「踊りたりない」「もっとアシェーを」と歯がみしつつ
雨を呪っていた連中だろう。雨上がりに突如現れたコルテージョは、彼らにとって砂
漠のオアシスだったようだ。次から次へと異様なテンションで乱入してきて、パレー
ドの人数がみるみる膨れ上がる。彼らもすぐにサンドラさんの信奉者となって、同じ
踊りを踊り始める。サンドラさんはシンプルでダイナミックなステップをいくつも知っ
ていて、ひとつずつ、後に従う人々がまねできるように大きな動作で踊ってくれる。
我々が見よう見まねで後を追い、リズムに合わせて全員が踊れるようになったら更に
激しくテンションを上げる。生の音楽との相乗効果で、ものすごい盛り上がりとなる。
悲しいかな、それを追う僕たち日本人と飛び入りの連中は体力が持続しない。しかし、
我々の息が上がって動きが鈍ったのをみはからって、サンドラさんは次のステップを
披露する。かっこいい。おずおずとまねをしているうちにアドレナリンがどばっと溢
れてきて、またまた息が上がるまで踊ってしまう。そんなふうにして、路上の人々と
ともにエンドレスのダンスを踊り続けた。サンドラさんの後ろで彼女のキレのいい身
のこなしを有象無象の「イカレた連中」が勢ぞろいしてなぞっている光景は、かなり
異様だったに違いない。だけど、コルテージョのみなさんは、そんな我々をにっこり
微笑んで受け入れてくれた。それだけじゃなくて、「もっとやれ。もっと激しく。」
と容赦なく煽り続けたのだった。
 脳が酸素を求めている。大腿筋の乳酸値がリミットを越えている。地べたにへたり
こんでひと休みしたい。だけど、そんなことをしたらこの行進から取り残されてしま
う。それはきっと、ものすごく寂しいことにちがいない。だから、歯を食いしばって
ついていく。動きが止まるとしたら、それは気絶した時かもしれない。
 皆が同じ思いだったにちがいない。傍から見れば、鬼気迫るパレードだったかもし
れない。我々は、ときに立ちくらみを感じながらも、これまで経験したことのない恍
惚感に導かれて最後までテンションを落とさずにゴールまで踊り切った。幕末に流行っ
たという「ええじゃないか」もこんなふうに熱狂したんだろうな、と思った。カルナ
ヴァルはしばしば俗っぽい娯楽と間違えられるが、もともと宗教行事だし、今でもけっ
して聖性を失っているわけではない。日常を逸脱して聖なる空気を身にまとう貴重な
機会なのだ。われわれはそこでインテンシティーの高まりとともに生命の実感を回復
し、狂乱の向こうに我々の力を超越した「聖なるもの」の存在を実感する。キリスト
という秩序のシンボルが効力を失う数日間を狙って、土着の神々やアフリカからもた
らされた神々が独特のやり方でエロスとタナトスを充填する。痩せ細った日常の中に
猥雑なエネルギーを注入し、生きる意欲を回復させる。天まで届く音楽も激しい踊り
も派手な衣装も、全ては神々を地上に現出させるための儀式なのだ。パレードを終え
た時、体一つでこの儀式に参加したという実感が残った。
 夜風が気持ちよかった。帰り道を歩きながら、こんなに長い距離をどうやってたど
り着いたのか、不思議に思った。歩いて帰るのさえ、途中休憩がしたくなるほどの距
離なのだ。ほんとうに、こんなに長い道のりをあんなに激しく踊りながら行進してき
たのだろうか。
 自分でも信じられない。
 東の空が明るくなってきた。もう、朝なんだ。なんて清々しい朝だろう。波の音が
心地いい。目に映るものがすべて、浄化されて見える。これが本当のカルナヴァル、
聖なる空間との融合だ。サンドラさんが導いてくれたおかげで、観光客には入り込め
ない領域にすんなりと溶け込むことが出来たのだ。心から感謝したい。
 今ふり帰っても、このようにして、地元の人々とともにブロッコ・アフロに参加で
きたことは、ブラジル音楽の綺羅星たちを目撃したことよりもずっと貴重な体験だっ
たと思う。


2000年3月5日(dom.) madrugada

アシェーの女王

 連日、盛り沢山のパレードに煽られて踊り続けたツケで、全身の筋肉が悲鳴をあげ
ている。足の裏が硬くなって裂け目ができ、そこから血が滲んでいる。しかし、心が
わくわくして、休もうにも休めない。

 裏通りはあちこちにゴミの山ができ、悪臭が充満していた。午前中に清掃部隊がそ
れを掻き集め、洗剤を撒いてブラシでこすってまわってくれるのだが、午後になると
すぐにゴミの小山が復活している。そのそばで、屋台を営む家族連れがゴザをひいて
眠っていたりする。

 今日も、チンバラーダから始まった。「白衣の怪人」姿はもうやめたのに、かぶっ
ていたタンザニア製の帽子が目立つのか、あるいは顔を覚えてくれたのか、トリオの
そばへ行くとメンバーやロープマンたちが「ヘイ、ジャポネーズ」と手を振ってくれ
る。ロープの中にも僕の姿を見覚えてくれた人が何人かいて、握手を求めてきたり、
中には「記念に写真を撮らせてくれ」と頼みにきた人もいる。もちろん、快く応じる。
僕の存在が彼らのお祭り気分を高めているのなら、それはとても光栄なことだけれど、
「日本人が踊っている」というだけで注目されるなんて、なんだか不思議な気分だ。

 「今日は疲れているからおとなしくしていよう」と誓ってホテルを出たのに、音楽
が鳴り響くとどうしても激しく踊ってしまう。なるべく人込みを避けて、やや後ろよ
りにつけてトリオを追った。トリオの後ろ側ステージに陣取ったアキラが見るからに
性格のよさそうな笑顔で歌っている。彼なら、アフリカ系の文化が強いこの街でも人
々から愛されることだろう。彼が加入したあとで発売されたアルバム「...pense min
ha cor...」のジャケットを見たとき、正直言ってアフロ色が薄れたことを残念に思っ
たし、日系人のボーカルは地元の人々に受け入れられないんじゃないかと心配もした。
けれど、アキラがバイーアの空の下で伸びやかに歌うのを見ると、この街は僕が想像
したのよりもずっと懐が深いのではないかと思えてきた。ブラウン総帥の信条---ブ
ラジルは、世界中の文化を受け入れてきた。ヨーロッパやアフリカだけじゃなく、イ
ンヂオ、アラブ、日本、その他たくさんの人々によって育まれた混血文化なんだ---
が思い出される。

 彼らを追いかけている途中で、日系の可愛らしい女性が日本語で声をかけてきた。
「日本人ですか」
「はい、そうです。あなたは?」
「日系人。ここで育ったの。アキラって知ってます?今、あそこで歌ってる。あれ、
あたしのお兄さんなの」
ううむ、そうだったのか。
 今日は、彼らのパレードの半ばまでつきあってから、バーハの灯台まで引き返すこ
とにした。クロコディーロ号に乗って君臨するアシェーの女王、ダニエラ・メルクリ
が出撃するのだ。

 パレードの人の流れに逆らって引き返すのは大変だったが、引き返す途中で「エ・
オ・チャン」や「テハ・サンバ」のパゴーヂ系バンドとすれ違い、彼らのお気楽サウ
ンドを楽しむことができた。パゴーヂといわゆるアシェー・ミュージックをどうやっ
て区別するのか、僕にはよくわからない。だが、パゴーヂはどれも同じ曲のように感
じられる。なにか、リズム上の特徴があるのだろう。
 この街の人々は、パゴーヂがとても好きだ。軽くてリズムが定型的なので、踊るの
には好都合なのだろう。ひとつのトリオが通り過ぎ、別のトリオがやってくるまでの
短い空白時間でも、傍らのレストランが大音響で流し続けているパゴーヂに合わせて
人々が路上で踊っている。ほんとうに楽しそうだ。

 そうした人々の隙間を縫って、ようやくスタート地点・バーハの灯台横に辿り着い
た。まだ前のトリオが滞っていて出発待ちの時間だというのに、ダニエラは既にハイ
テンションで歌い始めていた。彼女のトリオは他のと違って、運転席の前にワニの顎
のように突き出たステージが取り付けてあり、そこに降りると群衆とほぼ同じ高さで
歌ったり踊ったりできる、という形になっていた。それと、運転席上のステージのま
わりには、電光掲示板で「ILE AIYE 25 ANOS」「Terra do Quilombo」などという
文字が流れていた。自分の名前や曲を表示しないで、イレ・アイエの25周年を祝い、
イレ・アイエの今年のテーマ「キロンボの大地*」を掲げている。
 (*キロンボとは、弾圧から逃れた黒人奴隷が内陸部に作り上げた共和国のこと。
    政府軍に弾圧されながらも、逃亡奴隷の解放区として存続した)

 バイーアの歌の特徴として、ミュージシャンやアフロ・ブロッコが互いにエールを
交換しあっている、ということが挙げられる。自分が憧れていたミュージシャンや影
響を受けたブロッコを讃える歌が数多く歌われている。恋愛の歌ももちろん多いけれ
ど、こうした先達や、バイーアの街そのものへの愛を歌っているケースがたくさんあ
るのだ。

 中でも、黒人としての矜持を持ち続け、決して商業的なポップ・バンド化に色気を
示さないイレ・アイエは、バイーア音楽の重鎮として尊敬を集めている。そもそも、
一部の白人達の祭であったカルナヴァルに、初めて黒人チームとして弾圧に屈するこ
となく参加し、アフリカ系文化を堂々と主張したのがイレ・アイエであり、それもたっ
たの25年前の出来事なのである。そうやって培った土壌の上に、アシェー音楽の華が
開いたわけで、ダニエラがアシェーの女王として全国的に知られるようになったのも、
イレの存在があってこそと言えるだろう。

 ダニエラが歌っている。

  Voce passa o ano inteiro       あたしのこと、年がら年中
  Dizendo que gosta de mim      好きだっていってるくせに
  Mas quando chega fevereiro    二月が来ると見向きもしない・・・
  Voce quando ve o ILE, parece    あんたったら イレ・アイエを見たとたんに
  Que perde o juizo, amor, amor   人が変わったみたいになっちゃうんだから
E o amor ao ILE, menina      だって、イレーは最高なんだぜ
E o amor ao ILE, E o amor ao ILE,  しかたないだろ  イレーが好きなんだ
Que me faz faz esquecer voce   君のことだって、忘れてしまうさ

               (ダニエラの3rd album「Musica de Rua」から)

 押しも押されぬ大スターになった今でも、こうしてイレ・アイエへの尊敬を歌い
続けるダニエラは偉い。デビュー当時の写真とくらべると若干丸みを帯びたとはいえ、
しなやかな肢体を弾ませて軽やかに踊る姿は今でも十分に若々しい。リズムに合わせ
たキレのいいターン、メリハリの聞いた歌声。観客を煽りつつ、歌うことを心から楽
しんでいる笑顔がほんとうに素敵だった。

 ダニエラのひとつ前で順番待ちをしていたのが、ダニエラに続くアシェー・クイー
ンとして名乗りをあげているイヴェッチ・サンガーロだ。最近バンダ・エヴァから独
立して精力的に活動している彼女も、決して悪くない。だが、こうして本物の女王と
並んでしまうと、まだまだ及ばないと思った。ひとつには、イヴェッチにはどこか
「自分を売り込むことに長けている」というイメージが漂っているが、ダニエラから
は「純粋にこの街が好きで、歌うこと、踊ることが大好き」という原点がはっきりと
感じとれる、という違いがあるだろう。

 イヴェッチのトリオ(彼女が個人で購入したという噂だった)が出発し、クロコディー
ロ号がようやくスタート地点にスタンバイした頃には、既にヒットナンバーを5?6
曲歌い上げていたダニエラだったが、ひと休みしようという気配も見せず、ますます
熱く盛り上がって歌い続けた。曲の途中でミネラルウォーターをラッパ飲みし、さら
に歌い続ける。誰もが知っている彼女の持ち歌ばかりで、群衆もそれに合わせて歌声
を張り上げる。この調子で四時間、一人で歌って踊りつづけるのだから生半可なタフ
さ加減ではない。

 テンションをトップギアにぶち込んだまま、クロコディーロがのそり、のそりと動
き出した。ウォーッと吠える群衆。近隣のビルの窓から、住民達が鈴なりに身を乗り
出して手を振ってダニエラの視線を求めている。それに投げキッスで応じる女王。上
がる歓声。ロープの外、クロコディーロの斜め前の、ほんの少しだけ人口密集度が弛
んだあたりで僕はその波動に感応していた。とても良い感じで、そのままバーハのメ
インロード中央部にある巨大なカマロッチまで辿り着いた。ほかのトリオと同様、ク
ロコディーロはそこでしばらく移動をとめ、カマロッチの観客と何台ものテレビカメ
ラを堪能させた。

 だが、僕はここでとても嫌な光景を目にしてしまった。
 カマロッチの入場料は、半端じゃなく高い。地元住民の買える額ではない。明らか
に、一部の金持ちや外国人観光客のために存在している。その結果、カマロッチでは
いやらしいほどに白人ばかりが目立ち、彼らが高みから地元の人々見下ろすという告}になっている。

 僕がダニエラの歌声に聞き惚れていた時、すぐそばで人々がざわめきはじめた。カ
マロッチの三階から太った白人女性が路上の地元民たちに缶ビールを投げ与えている
のだ。みすぼらしいなりのバイアーノたちがそこへ殺到する。だが、そのあたりには
小さい子供や赤ちゃんを抱いた女性もいるのだ。子供が蹴飛ばされ、母親が悲鳴をあ
げる。カマロッチの上から缶ビールを投げ落としている女はそれを見てげらげら笑い、
さらにビールをちらつかせて、下の男たちをからかう。そのそばで、別の白人女性が
ビデオカメラを構え、男たちの浅ましい姿を撮影している。缶ビールがさらに投げ落
とされ、男たちはそれを拾うために争っている。

 僕は大声で「やめろ!子供がいるんだぞ。」と叫び、両手を上げて制した。女たち
はチラッと僕を見たが、まるで意に介さず、まるで動物園の猿の檻に餌を投げ与える
みたいな態度でこちらを見下ろしている。なんて奴だ。きっとあいつは他所者に違い
ない。あんなのがバイアーナだなんて、信じたくない。

 情けないのは、たかが缶ビールでシッポを振ってしまう男たちのブライドのなさだ。
普段のバイアーノたちのお気楽な傾向は、むしろ好ましく思っている僕だが、こんな
光景を見たのでは幻滅させられる。おい、お前たち。すぐそばでダニエラがバイーア
の誇りを歌っているんだぞ。それを無視して、なんてザマだ。さいわい下にいた子供
や女性は無事避難したみたいだったが、僕はこの一件でひどく気分を害された。

 ダニエラのところからこの騒ぎが見えなかったのは幸いだ。こんな場所はさっさと
退散して、別のところで彼女の歌を聞いて気を取り直すことにしよう。

 Quem e gue sobe a ladeira do Curuzu? クルズの丘を登るのは、誰?
 E a coisa mais Linda de se ver?    最も美しいものは、何?
 E o Ile Aiye              それは、イレ・アイエ
 O mais belo dos belos         美しきものの中で最も美しい
 Sou eu sou eu             わたしのことだ
 Bata no peito mais forte        更に強く胸を撃つ響き
 E diga: Eu sou Ile....           我こそ イレ・アイエ
       (ダニエラの2nd album「o canto da cidade」から)

 黒人として誇りを掲げて人々から---女王ダニエラからも---敬愛されるイレ・アイエ。
彼らの矜持が、全ての貧しきバイアーノたちが共有されるようになってほしい。この街
を心から愛し、この街への祝福を捧げ続けているダニエラの歌声を聞きながら、僕はつく
づくそう思った。




2000年3月5日(dom.) tarde e noite

2001-08-30

2001年カンヂアルの旅

 カンヂアルを初めて訪れたのは97年の暮れだった。
 この時は、LAPAからBROTAS行きのバスに乗り、坂道を下った。相棒のミヤケ君
はその前の年にできたばかりのゲットーでのライブを体験しており、彼に案内されて
二人でやってきたのだった。
 僕にとっては初めてのバイーア、いや、初めての南米で、ポルトガル語はまったく
話せなかった。
 話せなかったのはミヤケ君も同様だ。だが彼はチンバラーダの大阪公演の際に関西
国際空港まで見送りに行き、ヴォーカルのパトリシアに花束を手渡したことがある。
感激した彼女たちは、ミヤケ君の好意に答えるために、雑多な人々が行き交う空港の
ロビーでパーカッションの包みを解き、わざわざ一曲演奏してくれたそうだ。
「あの時の彼がはるばるカンヂアルまで来てくれた」ということで、その時のゲットー
ライブでミヤケ君はステージ上に招かれて、パトリシアと熱く抱擁を交わしたという。
 熱いぜ、チンバラーダ。

 僕は、空港での見送りこそできなかったものの、ミヤケ君と一緒に「かわちながの
音楽祭」の交流イベントに参加して、パトリシア、アウグスト、シェシェウ、アレッ
シャンドラたちチンバラーダの面々と楽しいひとときを過ごし、彼らのフレンドリー
な素顔に接したことがある。
 彼らなら、僕のことだって覚えていてくれるかもしれない。
 なによりも、彼らの生の音にもう一度触れたかった。

 ところが、彼らに会いたい一念で片道36時間もかけて地球の反対側からやってきた
というのに、無慈悲にも僕たちがカンジアルを訪れた日は、彼らはポルトセグロまで
ツアーに出かけていて、ゲットースクウェアでのライブは行なわれなかった。
 この頃僕はカタギの勤め人で、短い正月休みを利用しての旅行だったから、その週
の金曜日には日本に帰ってしまうという日程だった。つまり、この日がチンバラーダ
と出会える唯一のチャンスだった。
 そりゃ、ないよ。。。。
 意気消沈しつつも、ゲットーの前で記念写真を撮り、ゲットーの隣の店でジュース
を飲んだ。
 子供たちが路上で遊んでいる。半ズボンに上半身裸という格好でサッカーボールを
器用にあやつっている。裸足の子供も数人いた。
 僕は、ライブ開始までの待ち時間を利用して地元の子供たちとコミュニケーション
を図ろうと思い、ペンシルバルーンを持参していた。
 せっかく来たんだから、風船だけでもやってみようか。。。
 昔、パントマイムを習っていた頃に教えてもらった簡単なやつ(いぬとうさぎ)しか
作れないが、面白がってくれるだろうか。

 街角サッカーに加わらず、遠くから僕たちのことを興味深そうに眺めていた少年を
招き寄せ、風船を取り出す。
 少年は、好奇心いっぱいの顔で覗き込む。
 注射器みたいなポンプを取り出し、空気を吹き込む。
 風船が膨らんでいくのを見て、少年の顔が輝き始める。
 そのころには、路上でサッカーをしていた男の子たちも気づいてわらわらと集ま
ってくる。
 10cmぐらい余裕を残して空気注入をやめ、注入口をギュッとゆわえる。
 早くも、「ちょうだい」とばかりに手がたくさん伸びてくる。
 「まて、まて、まて」と手で制して、きゅっ、きゅっ、きゅっと捩って犬の頭の
部分を作る。
 子供たちが、わあっと歓声をあげる。
 きゅっ、きゅっ、きゅっ。前足。きゅっ、きゅっ、きゅっ。後ろ足。
 完成だ。
 みんなに見えるように頭上に掲げる。
 飛び上がってそれに触ろうとする子供たち。
 ぐるっと見回して、いちばん小さい子供にあげる。
「次はオレ、次はオレ」
 その場にいた全員が、からだ全体でそう主張しながら、まとわりついてくる。
 ちょっとヤバいかな。。。。収拾がつかなくなるかもしれない。
 荷物をミヤケ君に預けて、ひたすら風船作りに励む。渡す時は、小さい子供から
順にあげるようにしていった。
 通じないのを承知で、日本語で「ちいちゃい子ぉからやで」と言いながら、次に
小さいのはどの子かな...と見回すと、ちゃんと僕の意図を察して人垣の輪がくずれ、
ちゃんと小さい子が受けとれるように場所を空けてくれた。
 なかなか感心な子供たちだ。
 でも、その子が受け取ると、全員が「次こそオレの番だ」とばかりに手を伸ばし
てくる。思いやりもあるが、容易なことではヘコたれない。
 なんだか嬉しくなってきた。
 と、そこへ、どこからともなく上半身裸の兄ちゃんがビリンバウを演奏しながら
現れた。そして、何もいわずに、僕の動きに伴奏をつけはじめた。風船が膨らむに
したがって音色が高くなっていく。そして、犬やウサギの形ができあがっていくの
と同時に曲がクライマックスを迎え、完成した瞬間にフィナーレに到る。
 まったく見事な演奏だ。
 昼間っからそのへんをふらついてる兄ちゃんでさえ、この腕前だとは....さすがは、
ブラウンの地元だ。
 カンヂアル、おそるべし。

 その翌年の末に、僕とミヤケ君はゲットースクウェアとは別の会場---郊外のウォー
ターランドの開園記念イベントだった---で、数千人の群衆とともにチンバラーダの
ライブを楽しみ、パトリシアとも再会を果たした。
 その後、僕はカタギの仕事を辞めて比較的自由に休みがとれるようになり、念願の
カルナヴァルにも参加することができた。この辺のことは「カルナヴァル体験記」で
詳しく触れたので、ここでは省く。
 2000年の末、今度こそゲットーライブに参加しようと思って、バイーア入りした
当日---ちょうど日曜日だった---に荷物をホテルに置くが早いかタクシーに乗り込み、
カンヂアルを再訪した。
 が、ゲットーの入り口で「クリスマスだから今日は休みだよ。来週おいで」と言われ
てしまった。三年前の空振りを再現してしまったのだ。
 長旅の疲れもあったので、このときはタクシーを降りることさえしないで、そのまま
Uターンした。

・・・・・・
 ここまでが、いわゆる「前振り」というやつです。書いているうちに長くなってしま
いました。以下、標題のとおり、2001年のカンヂアルの様子を点描します。

======
 三度めのカンヂアル訪問は、2001年の一月二日のことだ。
 カルナヴァルの時に知り合った、かの有名な「ブラザー・チンバ」でチンバウを叩く
スズキさんとバイーアで再会し、旧交を暖めたのが訪問のきっかけだった。スズキさん
は、しばらくバイーアに滞在してチンバウ修行に励むとのことだった。
 スズキさんは何度もカンヂアルを訪れており、ブラウンに曲を提供することもあると
いう市井のミュージシャンや、現地で道場を開いているカポエイリスタたちと旧知の仲
らしい。スズキさんが彼らとしゃべっているところにブラウンがやってきて、自作の曲
をブラウンの前で演奏してみせる....という場面に出くわしたこともあるそうだ。訪ねて
いけば、昔のカンヂアルの写真等を見せてくれるだろうということだった。
「ぜひ、連れてってください。僕も、その人に会いたいです」
こうして2001年カンヂアルの旅が始まった。

 「カンヂアルって、ファベイラでしょ? 危険じゃないの?」
 バイーアのことを少し知っている日本人に、何度か聞かれたことがある。
 正直言って、最初は、足を踏み入れるのに緊張した。財布を隠しポケットに入れたり、
いざという時に走って逃げられるように、サンダルをスニーカーに履き替えたりもした。
だけど、実際に行ってみると、そのような警戒心はまったく場違いであるように思えた。
こちらの不注意や不用心のせいでブラウンの地元に無用のトラブルを招くような事態は
避けるべきだけれど、旅人としてのマナーさえ守っていれば、恐い思いをすることは、
まずないだろうと思う。

 バスで行くには、前述のようにLapaからBrotas行きに乗り途中下車して坂道を下る
か、BarraからRisboa行きに乗り、Centre Medicoのあたりで降りて坂道を登るか、
二つのルートがある。今回は、後者の道を選んだ。
 バスを降りて広い道を渡る。まわりには真新しい高層ビルが立ち並んでいる。お洒落
なオープン・エアのレストランを横目に見ながら路地に入る。ここまでは、極めて人工
的・近代的な都市の一角に居るとしか思えない。

 路地に入って、二つめの角を左に曲がる。すると、目の前に堤のような小さい池が現
れる。池のそばには小さな林があり、樹々のこずえが路上に鬱蒼とした影を投げかけて
いる。ちょうどそこがバス停になっていて、家族連れらしき数人が影の中にしゃがみ込
んでバスを待っていた。彼らのたたずまいは、数年前にタンザニアを旅行した時に目に
した情景を思い起こさせた。
 突然、アフリカの一角に迷い込んだような錯覚を感じたのだ。
 先に進むと、赤土が剥き出したままの空き地があり、右上に向かって細い道が続いて
いた。道の上に小屋があって、そこから太鼓の音が聞こえてくる。子供が叩いて遊んで
いるようだ。僕たちの姿を認めた子供が、太鼓を叩く手をとめて、上から僕たちを見お
ろしている。

 わくわくしてきた。中国の古い話に、童子に導かれて桃源郷に到るという伝説がある
が、まさしく異界への入り口をくぐり抜ける気分だ。
 坂道を少し上がり、左側の鋪装してあるほうの道を進む。スズキさんの話によると、
4年前、ゲットー・スクウェアができたばかりの頃は鋪装されてなくて、ロバが荷物を
運ぶのと擦れ違ったりしたという。ゲットー効果で地区の近代化が進んだのだろう。

 雑草がぱらぱらと生えているだけの何の変哲もない広場が道の左側にあった。スズキ
さんに「ここが、チンバラーダが最初の頃に練習していた場所だ」と教えてもらわなけ
れば、見過ごすところだった。
 この空き地で録音した30秒ほどのサウンドがラジオで流れた直後に「今のすごいのは
何だったんだ?!」という問い合わせが殺到したという。つまり、チンバラーダ発祥の地
なんだな、ここが。

 一軒のバンカ(道端にあるキオスクのような小さな商店)を通り過ぎたところで、前衛
的なデザインの建物がいくつか視界に飛び込んできた。目に鮮やかな原色で、壁にさま
ざまな絵や幾何学模様が描かれているのだ。無表情なビル街のすぐそばに、こんな独自
の世界が広がっているとは。。。あの辺りが、カンヂアルの中心地だな。
 子供たちが坂道を降りてきた。五人のうち一人は裸足で、あとの四人はサンダルを履
いているが、上半身は裸だ。5?6才ぐらいの少女たちは、きっと双子だろう。お揃い
の赤いリボンと黄色い半ズボンがとっても可愛い。カメラを撮り出して「撮ってもいい
か?」と尋ねると、黙って整列してくれた。カシャ!・・・・・少し、笑顔がカタい。
見知らぬ闖入者を警戒しているのだろう。

 3年前と同様、風船を持ってきているのだが、ここで披露するのは早すぎるかもしれ
ない。
 あせるな、と自分に言い聞かせつつ、先に進む。すると、壁を真っ赤に塗った小さな
建物が目の前に現れる。倉庫のような造りで、廂からバケツや空き缶等が釣り下げられ
ている。赤い壁のあちこちに「BANDA LACTOMIA」「PAZ, AMOR, ESCOLA...」等と
書かれ、楽譜や音符、ト音記号等が描かれている。
 ブラウンが率いる独創的子供打楽器集団・ラクトミーアの独創的楽器の置き場なのだ
ろう。カンヂアルの子供たちに空き缶や空き瓶等を再利用した楽器の演奏を教えて、独
自の音楽活動を展開しているという話は何度も聞いたことがある。残念なことに、まだ、
実際の演奏を聴いたことはないけれど。

 入り口の前には漬物石ぐらいの大きさの石がいくつか置かれている。きっと駐車禁止
の意図で置かれているのだろう。ご丁寧にも、石全体を黒く塗ってその上に白くチンバ
ラーダ的幾何学模様をデザインしてある。
 ブラウンの仕業かな?.....彼の手によるものではないかもしれないが、巨大な才能の
奥底でイタズラ小僧のような好奇心が跳ね回っているあの男なら、こういう遊び心が気
に入ることだろう。いずれにせよ、ここはブラウンの地元だと実感した。

 その先に、湧水の出る一角がある。板垣真理子さんの写真集にも載っていた「Agua
Mineral」ゆかりの泉だが、板垣さんが訪れた時の面影は残っておらず、コンクリート
で固められて小さな広場になっていた。水場は残っているが、栓をしめているのか、水
は涸れていた。この一角は、こぎれいな手摺で囲まれていて、むこう側の壁に絵文字で
「CRIATIVE CULTURE」などと書いてある。
 広場のそばにドンとそびえているのが、ブラウンが心血を注ぎ込んで作り上げた学校
「PRACATUM」だ。壁面に巨大な矢印、そして白と黒のタイルでチンバラーダ的ぐり
ぐり模様を描いてある。そして、その向こうに、ゲットー・スクウェアが鎮座している。
壁の色が緑と黄色を基調にしたものに塗り替えられ、屋根の上のピラミッドも、白い壁
で覆われている。

 タクシーで来た時は、なんだか華々しくなったな、と感じただけだが、歩きながら見
回してみると、予想以上に大きな変化が見られる。がけっぷちにへばりつくように建て
られていた細民街が、コンクリート製の瀟洒なテラスハウスに変身している。これも、
ブラウン効果か。後でここの住人から聞いたのだが、崖崩れの危険性のあるこの区域の
住民に懇願されたブラウンが、私財を投げ打って整備したのだそうだ。道幅が狭いのは
相変わらずだが、チンバラーダが稼いだお金を投入した結果、下水道や街灯などのイン
フラが見違えるほどに整備されたのだ。

 あいにく、道場の主・マルキーニョス氏は不在で、鍵がかかっていた。その隣のスタ
ジオはブラウンがいつも使用しているところだけれど、ブラウンの愛車がないから今日
は来ていないよ、とスズキさんが教えてくれる。ひょっとすると、カンヂアルの御本尊
に出くわすかも....と淡い期待を抱いていたのだが、世の中そんなに甘くないようだ。
 3年前にも立ち寄った店でジュースを飲みながら少し気を鎮める。興奮がおさまって
くると、3年前のことがリアルに思い出されてくる。あのときは、ゲットースクウェア
の向こう側へ足を踏み入れるのに躊躇して、結局、元の道を引き返してしまった。今回、
逆側から入ってみて、カンヂアルが思いのほかこぢんまりとした区域であることがわか
った。車の通れる道は一本しかなく、細かい路地が入り組んでいる。

 「せっかく来たんだからちょっと探検してみよう」と意見が一致して、スズキさんも
入ったことがないという細い路地に足を踏み入れてみる。が、すぐに行き止まりだった
り、民家の庭先に直結していたりして、しかもその周囲は生の生活の匂いがぷんぷんし
ていて、なんとなく気が引ける。余りに庶民的すぎて、我々余所者がお邪魔するような
場所ではないって感じだ。間違っても観光客がうろつくようなところではない。
「貴様ら、何者だ!」
などと怒鳴られたら、平伏するほかはない。

 おそるおそる歩いていると、「PRACATUM」の裏側の少し広めの路地に出た。そこ
で、何かの資材を片付ける作業をしている女性数人と、その子供たちに出会った。
 子供たちが好奇心いっぱいの目で僕たちを見ている。母親たちは、作業の手をとめて
にっこり笑ってくれた。ここなら、うまくいきそうだ。
 スズキさんに「ここでちょっと時間をとるけど、いいかな?」と断わって、風船を取
り出す。たちまち子供たちに囲まれる。ササッと犬を作り上げて、一番快活そうな太っ
ちょの少女に渡す。
「プレゼントだよ」
両目を大きく見開き、歓声をあげる少女。そのまま駆け出して自分の家に戻り、家の中
にいる誰かに向かって「ほら!見て!! ニホンジンにこんな物もらっちゃった」と叫んで
いる。

 あまりにもストレートな反応にあっけにとられつつ、その場に居た子供たちに一つず
つ作ってあげる。小さい子供から順々に.....男の子たちは「次はオレだ」と激しく主張す
るが、
「So pra crianca pequeno. 」(ちっちゃい子だけだよ)
と話しかけると、不満そうな顔をしながらも、手を引っ込める。
 ペンシルバルーンは膨らませるのに時間かかかる。今回は小型のポンプを使っている
のでなおさらだ。あまり時間を喰っていると、噂を聞きつけた子供たちが次々に集まっ
てきて、収拾がつかなくなる。そこで、男の子たちにはふつうの風船を口で膨らませて
あげることでお茶を濁した。

 ひととおり行き渡ったところで、お手玉を取り出してジャグリングを披露する。これ
もウケた。母親たちから拍手が起こる。一人の母親に「Quer tentar?」(やってみる?)
とお手玉を手渡すと、周りから激励の拍手が起こる。
 ジャグリングというのは簡単そうに見えるが、練習したことがないとなかなかうまく
いかないものだ。すぐに地面に落としてしまう。別の母親がチャレンジする。その度に
かけ声やため息、笑い声が起こる。とってもなごやかで明るくて、いい雰囲気だ。心が
洗われる。そう、こんな空気に触れたくて、カンヂアルを訪ねたのだ。期待以上に良い
反応に、頬がゆるんでくる。

 誰もうまくできず、スズキさんにもやってみろと声がかかる。
「えっ、俺?やったことないんだけれどなあ....」
おずおずとお手玉をあやつるスズキさん。やはり、三、四度目には落としてしまう。
それで、「アンタはどんなマジックができるんだ?」などと囃されている。
なんか、僕の引き立て役みたいになっちゃって気の毒だったので、フォローのつもりで
「この人はねぇ、チンバウが上手なんだよ」
と言ってみたが、誰一人として反応しない。日本人がチンバウを演奏できるなんてのは、
インド人が三味線を弾くくらい珍しいことだし、ましてやカンヂアルはチンバウの総本
山みたいな土地柄なのだから、「どんな曲が好きなの?」とか「どこで習ったの?」と
か、質問が集中するんじゃないかと思ったのだが、驚くほどそっけない反応なのだ。

 スズキさん曰く、
「ここの人たちにとって、チンバウが上手いのは当り前のことなんだよ」
・・・・なるほど、そうなのか。
 僕にしてみれば、スズキさんの演奏技術の一端でも聞かせることができれば、すぐに
驚異と賛嘆の視線が集まるのではないかと思ったのだが、いくら上手に演奏したところ
で、日本における「箸でご飯を食べる外国人」と同じぐらいにしか評価されないという
わけだ。
 うーむ、さすがはカンヂアル。奥が深い。

 そんなわけで、路地裏の人々の関心は僕の低レベルな大道芸の方に集中する。
 やり方を教えてほしいと母親たちにせがまれて、「ほら、一つめがいちばん上にある
時に二つめを投げるんだよ。こうやって...」と、大きな動作で模範を示してあげると、
「わかった」という声とともに一人の大柄な母親が進み出てきて、チャレンジする。
 一回、二回、三回、四回、・・・七回目ぐらいで落としてしまったけれど、初めてに
しては、上出来だ。わぁーっという歓声と拍手が彼女を包む。
 そろそろ潮時だ。記念写真を撮って、笑顔でお別れしよう。いやあ、楽しいひととき
だった。

 ・・・と、いうふうには、なかなか収まらなかった。
「風船をあげるのは、子供だけだよ」と言ったのに、通りがかったおばさんが「うちの
子供のために、一つ作れ」と言って聞かず、きつい目つきでつきまとうのに根負けして、
一つだけ作ってあげた。そのおばさんは満足してくれたが、他のおばさんや男の子たち
が「それなら私にもちょうだい」等と言い出すと、面倒なことになる。人垣がこれ以上
大きくならないうちに、急いで退散しなくては。
 元の通りまでそそくさと引き上げてから、スズキさんに、テラスハウスの階段を登っ
てみようと提案した。
 急な階段の両側にこぢんまりした、清潔そうな住宅が続いている。それぞれの持ち家
が、コンクリートの壁を明るい原色で塗り分けているのがバイーアらしくて、とても
センスがいい。ほとんどの家は窓が開けっ放しで、部屋の中が丸見えだ。家具や調度品
を見るかぎり、けっこう良い暮らしをしている。少なくとも、ファベイラという形容詞
は似合わない。
 階段を登る僕たちの後ろから、さっき風船をしつこくねだったおばさんがついてくる。
また、何かをねだるつもりなのかと少しばかり身構えたが、さっきとは打って変わった
穏やかな顔で、
「この先は、行き止まりだよ」
と教えてくれた。
「かまわない。僕たちは、ここの上からカンヂアルの風景を見たいんだ」

どうやら、このおばさんはこの一角に住んでいるらしい(ここがブラウンの援助で作ら
れたと教えてくれたのは、このおばさんだ)。
 おばさんと一緒に最上階まで上がると、6-7人の子供たちがきゃあきゃあ言いながら
出てきた。裸足だし、シャツも着ていないが、元気と好奇心が一杯の笑顔で僕たちを
歓迎してくれた。おばさんは、さっき僕から手に入れた風船の犬を子供たちに見せて、
子供たちが喜ぶさまを幸せそうに眺めている。
 しつこく詰め寄られて少し気分を害したけれど、あの時すげなく断わったりしないで
よかった、と密かに胸を撫で下ろす。

 全員に風船を作ってあげたいと思ったけれど、あと一つしか残っていなかったので、
代わりに簡単なマイム芸を披露してあげた。虚空に壁を作ったり、一人で綱引きをした
りしてみせただけだが、幸い、とてもウケた。
 子供たちは、お返しとばかりにカポエイラの技を披露したり太鼓を叩いたりして、僕
たちを楽しませてくれた。こっちも負けじとジャグリングを披露してお手玉を渡すと、
きょうだいあらそって真似をしはじめた。

 子供たちの父親は、片手に長い木の棒を、もう片方の手にビール瓶の破片を手にして
にこにこ笑っていた。それは何かと尋ねると、こうやって削るんだと言いながら、木の
皮をビール瓶の破片で削ぎ落としてみせた。
 彼は、テラスハウスの一番上、階段の行きどまりを越えて土の見える斜面に僕たちを
案内してくれた。子供たちが、太鼓やお手玉を持ってぞろぞろついてくる。

 雑草がまばらに生えただけの狭い隙間には、同じ長さの木の棒がたくさんあった。彼
は、この棒の皮を削ぎ落として生木にし、形を整えることを生業としているようだ。
「それ、ビリンバウになるの?」
と聞くと、そうだと答えた。やっぱり。一番年上の子供(15才ぐらい?)も、同じように
ビール瓶の破片で木の皮を削り始めた。カメラを向けると急に真面目な顔で真剣に働き
だしたが、写真を撮りおえると、また元のペースに戻るあたり、なんか微笑ましい。
 弟や妹たち(たぶん近所の子供たちも)は、彼らのそばで太鼓を叩いたりカポエイラの
技を練習したり、樹に吊るした古タイヤをブランコにしたりして、機嫌よく遊んでいる。
彼らは、いつもこんなふうにして日を過ごしているのだろう。
 のどかだ。
 豊かな暮らし向きとは言えないにせよ、なにかしら満ち足りた空気が感じられる。
 ふと、狩猟採集民の集落を訪れているような錯覚に陥った。遊びと隣接した、家族
単位の生産、時間に制約されない労働。。。子供が遊んでいるのを一日中眺めながら
暮らせる親なんて、そうそうあるもんじゃない。

 だけど、彼の手づくりのビリンバウが観光客の手によって現金に変えられない限り、
この生活は成り立たない。バイーアの歴史的特殊性と音楽的環境が、この家族の生活
を支えているわけだ。
 彼らの仕事場で、かつ、生活の場でもある崖の上の斜面から、カンヂアルを見おろ
してみる。思ったよりも緑が多く、美しい風景だった。
 家族の一人一人と握手を交わし、笑顔で別れを告げる。今度来る時も、彼らは僕たち
のことを覚えていてくれるだろうか。

 陽射しが、少しやわらいできた。スズキさんに「どうします?もう帰ります?」と
聞かれた。たしかに、潮時だ。が、何となく予感がして、「もう少し、うろつきたい」
と主張した。まだ通っていない道がある。あの道を歩いてから帰ろう、と。

 その道を歩き始めて最初の角を曲がったところで、立ち話をしていた男に呼び止め
られた。スズキさんがその男に近づいていった。二人は握手したあとで僕を指差しな
がら、うなづき合っている。
「彼がカポエラ道場のマルキーニョスですよ。今の話、聞き取れましたか?」
「わかんなかったけど、なんか、僕のこと言ってたみたいやね。」
「"ずっと前に風船を持ってきた男だろう"って。」
なんと、3年前にビリンバウで伴奏してくれたのが、このマルキ?ニョスだったのだ。
どうりで演奏が上手かったわけだ。当時の彼は小さなバンカで細々と商売していた、
半失業者みたいな状態だったらしいが、今ではミュージシャンとして、また、カポエ
イリスタとして認められて、 自分の道場を経営するまてになったわけだ。カンヂアル
の発展の歴史は、彼の成功物語と軌を一にしている。

 それにしても、僕の顔を覚えていてくれたなんて、光栄だ。
 あの時の風船作りが、こんなふうに人間関係を繋げてくれたというのも、バイーア
・マジックのなせる技だろう。

 マルキーニョスは、僕たちのためにわざわざカポエイラ道場を開け、中に招き入れ
てくれた。建物の内側にも外側にも、独特のタッチのイラストがびっしりと描かれて
いる。ビリンバウを掴んで舞い上がる鷲、西洋のお伽話に出てくるような森の精たち、
顔に刺青を入れたリアルなインヂオの顔....
 壁にかけてあったビリンバウを手に取り、次々と曲を弾いては解説を加えるマルキ
ーニョス。勿体ぶったことはひとことも言わず、音楽こそが唯一の価値、唯一の言葉
であるかのように、様々なメロディーを奏でてみせる。たった1本の弦から変幻自在
に繰り出されるリズムの魔術。なんて贅沢な時間なんだろう。
 さまざまなリズムのパターンを弾いてみせながら、口でメロディーを奏でる。聴い
たことのある曲、誰の歌だったっけ。。。いちいち記憶の引き出しを探るのが面倒に
なり、流れる曲に身を気持ちを委ねて楽しむことにした。せっかくの解説だけれど、
僕にはネコに小判だ。音楽談義は、スズキさんに任せよう。
 マルキーニョスはそんな僕の気持ちを読み取ったのか、途中から解説をやめて演奏
に集中し、長い曲をいくつも弾いてみせてくれた。ひょっとしたら、独りで演奏して
いるうちに気持ちよくなってしまったのかもしれない。

 ビリンバウの音を聴きつけたのか、何人かの子供や大人が道場まで上がってきて、
しばらく演奏を聴いてから、何も言わずに出ていく。壁に貼られた写真を見たり、
そのへんの物を触ったりするが、マルキーニョスはまったく意に介せず、演奏を続け
る。「オイ!」とかなんとか挨拶することもなく、気ままに入ってくる人、出ていく
人。私有空間と言う感覚が希薄なんだろう、きっと。

 うっとりしながら演奏を聴きつつ、壁の写真を見てみる。昔のカンヂアル、路上で
カポエイラを披露する、今よりちょっと若いマルキーニョス。ブラウンの姿も写って
いる。チンバラーダ創世期のカンヂアルの記録だ。
 思わず、熱心に見入ってしまった。マルキーニョスは気配りの人らしく、そんな僕
のために演奏を中断して、写真の解説をしてくれる。カナダやアメリカへ招かれた時
の写真もある。本人が写っているときは、ほとんどカポエイラのポーズを決めている。
 蛇を体に巻いている写真もあった。大切に飼っているペットだそうだ。 彼の名前、
マルキーニョス・ダス・コブラスの"das cobras"というのは、それにちなんでつけた
らしい。コブラのマルキーニョス、というわけだ。
 三月に発売されたカルリーニョス・ブラウンの3rdアルバム「BAHIA DO MUNDO」
の6曲めにBerimbau奏者として"Marquinhos das cobrasとクレジットされている
のが、この彼である。

 その他の写真は、カンヂアルで催し物があった時のもので、何人もの有名なミュー
ジシャンが写っている。ひとり、どこかで見たような顔だちの若者が写っていたが、
バイーアのミュージシャンじゃなさそうだったので誰かと問うと、ボブ・マーリーの
息子だよ、という答え。
 カンヂアルの片隅から、いろんなところに道が通じている。

 ひととおり写真の説明をしてくれた後で、マルキーニョスはカポエイラを披露して
くれた。カポエイラ・アンゴラとカポエイラ・ヘジオナルの違いを、分かりやすく説
明してくれる。メストレ・ビンバをはじめとする有名な先達たちが、奴隷たちが伝え
てきた技を体系化し、新たな技を開発してきた。予備知識のない僕には細かいことが
わからないけれど、体を使ったアート("art"には格闘技の意味もある)であることが
実感できた。サービス精神旺盛なマルキーニョスは、ブレイクダンスばりに頭を軸に
したままくるりと回転してみせたり、写真を取りやすいように逆立ちの途中で静止し
てみせたりもしてくれた。

 彼は、音楽やカポエイラのほかに、楽器の販売もしているらしいが、僕たちにそれ
を売りつけようとは全く考えていなかった。スズキさんが、シェケレの値段について
尋ねたので、初めてそのことを知った。彼のところなら、街で買うよりそうとう安い
値段で買えるらしい。外国人だからといって吹っかけようとしないのは、バイーアで
は極めて珍しいことだ。これだけ色々やってくれたのだから、彼が商品を見せさえす
れば、僕たちは何か買って帰るだろうに、そういう欲が湧いてこないらしい。

 彼が別れ際に熱っぽく語ってくれたのは、やはり音楽とカポエイラのことだった。
・・・アフリカの文化と伝統が、ここカンヂアルに息づいている。これは大切なこと
だ。これを広め、次の世代に伝えていかなければならない。そう語るマルキーニョス
のうしろの壁には、炎をかたどった文字で「Afro in Candial」と書かれていた。

 帰り道、残ったフィルムを使い切ろうと思ってそのへんの電柱や壁に描かれた絵に
カメラを向けていると、坂道の上の方から音楽が聞こえてきた。良いリズムだ。誰が
叩いてるんだろう。

 坂道を下りてきたのは、小学生ぐらいの女の子たちだった。手にスティックと空き
缶を持ち、それを叩きながら歩いている。音楽が、遊びとして定着しいるのだろうが、
遊びの域を越えているうまさだ。写真を撮ってもいいかと尋ねると、にっこり笑って
うなづいた。カメラを前にして、ちょっぴり誇らしげに演奏を続ける少女たち。

 この娘たちは、地球上のどこで暮らすことになっても、カンヂアルに育ったことを
誇りに思うだろう。大金持ちにならなくても、引け目を感じることなんてないだろう。
なにしろ、空き缶が一つありさえすれば、言葉の通じない人々にだって喜びを与える
ことができるのだ。

 かつて逃亡奴隷が隠れ住んだと言われる擂り鉢の底・カンヂアル。カポエイラ発祥
の地でもあるという(ブラウンがインタビューでそう言っていた)。

 電気も下水もちゃんと通っていなかった貧民街が、今や世界中のバイーア音楽ファン
の注目を集めている。それも、一時のブームなんかじゃない。間違いなく豊かな将来を
感じさせる土台を作り上げている。過去を踏まえた上に現在があり、それが未来へと確
実につながっている。

 この娘たちがカンヂアルの未来なんだな、と思った。

                 (完)

                         written by "AXE junkie"





2001年カンヂアルの旅

 カンヂアルを初めて訪れたのは97年の暮れだった。
 この時は、LAPAからBROTAS行きのバスに乗り、坂道を下った。相棒のミヤケ君
はその前の年にできたばかりのゲットーでのライブを体験しており、彼に案内されて
二人でやってきたのだった。
 僕にとっては初めてのバイーア、いや、初めての南米で、ポルトガル語はまったく
話せなかった。
 話せなかったのはミヤケ君も同様だ。だが彼はチンバラーダの大阪公演の際に関西
国際空港まで見送りに行き、ヴォーカルのパトリシアに花束を手渡したことがある。
感激した彼女たちは、ミヤケ君の好意に答えるために、雑多な人々が行き交う空港の
ロビーでパーカッションの包みを解き、わざわざ一曲演奏してくれたそうだ。
「あの時の彼がはるばるカンヂアルまで来てくれた」ということで、その時のゲットー
ライブでミヤケ君はステージ上に招かれて、パトリシアと熱く抱擁を交わしたという。
 熱いぜ、チンバラーダ。

 僕は、空港での見送りこそできなかったものの、ミヤケ君と一緒に「かわちながの
音楽祭」の交流イベントに参加して、パトリシア、アウグスト、シェシェウ、アレッ
シャンドラたちチンバラーダの面々と楽しいひとときを過ごし、彼らのフレンドリー
な素顔に接したことがある。
 彼らなら、僕のことだって覚えていてくれるかもしれない。
 なによりも、彼らの生の音にもう一度触れたかった。

 ところが、彼らに会いたい一念で片道36時間もかけて地球の反対側からやってきた
というのに、無慈悲にも僕たちがカンジアルを訪れた日は、彼らはポルトセグロまで
ツアーに出かけていて、ゲットースクウェアでのライブは行なわれなかった。
 この頃僕はカタギの勤め人で、短い正月休みを利用しての旅行だったから、その週
の金曜日には日本に帰ってしまうという日程だった。つまり、この日がチンバラーダ
と出会える唯一のチャンスだった。
 そりゃ、ないよ。。。。
 意気消沈しつつも、ゲットーの前で記念写真を撮り、ゲットーの隣の店でジュース
を飲んだ。
 子供たちが路上で遊んでいる。半ズボンに上半身裸という格好でサッカーボールを
器用にあやつっている。裸足の子供も数人いた。
 僕は、ライブ開始までの待ち時間を利用して地元の子供たちとコミュニケーション
を図ろうと思い、ペンシルバルーンを持参していた。
 せっかく来たんだから、風船だけでもやってみようか。。。
 昔、パントマイムを習っていた頃に教えてもらった簡単なやつ(いぬとうさぎ)しか
作れないが、面白がってくれるだろうか。

 街角サッカーに加わらず、遠くから僕たちのことを興味深そうに眺めていた少年を
招き寄せ、風船を取り出す。
 少年は、好奇心いっぱいの顔で覗き込む。
 注射器みたいなポンプを取り出し、空気を吹き込む。
 風船が膨らんでいくのを見て、少年の顔が輝き始める。
 そのころには、路上でサッカーをしていた男の子たちも気づいてわらわらと集ま
ってくる。
 10cmぐらい余裕を残して空気注入をやめ、注入口をギュッとゆわえる。
 早くも、「ちょうだい」とばかりに手がたくさん伸びてくる。
 「まて、まて、まて」と手で制して、きゅっ、きゅっ、きゅっと捩って犬の頭の
部分を作る。
 子供たちが、わあっと歓声をあげる。
 きゅっ、きゅっ、きゅっ。前足。きゅっ、きゅっ、きゅっ。後ろ足。
 完成だ。
 みんなに見えるように頭上に掲げる。
 飛び上がってそれに触ろうとする子供たち。
 ぐるっと見回して、いちばん小さい子供にあげる。
「次はオレ、次はオレ」
 その場にいた全員が、からだ全体でそう主張しながら、まとわりついてくる。
 ちょっとヤバいかな。。。。収拾がつかなくなるかもしれない。
 荷物をミヤケ君に預けて、ひたすら風船作りに励む。渡す時は、小さい子供から
順にあげるようにしていった。
 通じないのを承知で、日本語で「ちいちゃい子ぉからやで」と言いながら、次に
小さいのはどの子かな...と見回すと、ちゃんと僕の意図を察して人垣の輪がくずれ、
ちゃんと小さい子が受けとれるように場所を空けてくれた。
 なかなか感心な子供たちだ。
 でも、その子が受け取ると、全員が「次こそオレの番だ」とばかりに手を伸ばし
てくる。思いやりもあるが、容易なことではヘコたれない。
 なんだか嬉しくなってきた。
 と、そこへ、どこからともなく上半身裸の兄ちゃんがビリンバウを演奏しながら
現れた。そして、何もいわずに、僕の動きに伴奏をつけはじめた。風船が膨らむに
したがって音色が高くなっていく。そして、犬やウサギの形ができあがっていくの
と同時に曲がクライマックスを迎え、完成した瞬間にフィナーレに到る。
 まったく見事な演奏だ。
 昼間っからそのへんをふらついてる兄ちゃんでさえ、この腕前だとは....さすがは、
ブラウンの地元だ。
 カンヂアル、おそるべし。

 その翌年の末に、僕とミヤケ君はゲットースクウェアとは別の会場---郊外のウォー
ターランドの開園記念イベントだった---で、数千人の群衆とともにチンバラーダの
ライブを楽しみ、パトリシアとも再会を果たした。
 その後、僕はカタギの仕事を辞めて比較的自由に休みがとれるようになり、念願の
カルナヴァルにも参加することができた。この辺のことは「カルナヴァル体験記」で
詳しく触れたので、ここでは省く。
 2000年の末、今度こそゲットーライブに参加しようと思って、バイーア入りした
当日---ちょうど日曜日だった---に荷物をホテルに置くが早いかタクシーに乗り込み、
カンヂアルを再訪した。
 が、ゲットーの入り口で「クリスマスだから今日は休みだよ。来週おいで」と言われ
てしまった。三年前の空振りを再現してしまったのだ。
 長旅の疲れもあったので、このときはタクシーを降りることさえしないで、そのまま
Uターンした。

・・・・・・
 ここまでが、いわゆる「前振り」というやつです。書いているうちに長くなってしま
いました。以下、標題のとおり、2001年のカンヂアルの様子を点描します。

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 三度めのカンヂアル訪問は、2001年の一月二日のことだ。
 カルナヴァルの時に知り合った、かの有名な「ブラザー・チンバ」でチンバウを叩く
スズキさんとバイーアで再会し、旧交を暖めたのが訪問のきっかけだった。スズキさん
は、しばらくバイーアに滞在してチンバウ修行に励むとのことだった。
 スズキさんは何度もカンヂアルを訪れており、ブラウンに曲を提供することもあると
いう市井のミュージシャンや、現地で道場を開いているカポエイリスタたちと旧知の仲
らしい。スズキさんが彼らとしゃべっているところにブラウンがやってきて、自作の曲
をブラウンの前で演奏してみせる....という場面に出くわしたこともあるそうだ。訪ねて
いけば、昔のカンヂアルの写真等を見せてくれるだろうということだった。
「ぜひ、連れてってください。僕も、その人に会いたいです」
こうして2001年カンヂアルの旅が始まった。

 「カンヂアルって、ファベイラでしょ? 危険じゃないの?」
 バイーアのことを少し知っている日本人に、何度か聞かれたことがある。
 正直言って、最初は、足を踏み入れるのに緊張した。財布を隠しポケットに入れたり、
いざという時に走って逃げられるように、サンダルをスニーカーに履き替えたりもした。
だけど、実際に行ってみると、そのような警戒心はまったく場違いであるように思えた。
こちらの不注意や不用心のせいでブラウンの地元に無用のトラブルを招くような事態は
避けるべきだけれど、旅人としてのマナーさえ守っていれば、恐い思いをすることは、
まずないだろうと思う。

 バスで行くには、前述のようにLapaからBrotas行きに乗り途中下車して坂道を下る
か、BarraからRisboa行きに乗り、Centre Medicoのあたりで降りて坂道を登るか、
二つのルートがある。今回は、後者の道を選んだ。
 バスを降りて広い道を渡る。まわりには真新しい高層ビルが立ち並んでいる。お洒落
なオープン・エアのレストランを横目に見ながら路地に入る。ここまでは、極めて人工
的・近代的な都市の一角に居るとしか思えない。

 路地に入って、二つめの角を左に曲がる。すると、目の前に堤のような小さい池が現
れる。池のそばには小さな林があり、樹々のこずえが路上に鬱蒼とした影を投げかけて
いる。ちょうどそこがバス停になっていて、家族連れらしき数人が影の中にしゃがみ込
んでバスを待っていた。彼らのたたずまいは、数年前にタンザニアを旅行した時に目に
した情景を思い起こさせた。
 突然、アフリカの一角に迷い込んだような錯覚を感じたのだ。
 先に進むと、赤土が剥き出したままの空き地があり、右上に向かって細い道が続いて
いた。道の上に小屋があって、そこから太鼓の音が聞こえてくる。子供が叩いて遊んで
いるようだ。僕たちの姿を認めた子供が、太鼓を叩く手をとめて、上から僕たちを見お
ろしている。

 わくわくしてきた。中国の古い話に、童子に導かれて桃源郷に到るという伝説がある
が、まさしく異界への入り口をくぐり抜ける気分だ。
 坂道を少し上がり、左側の鋪装してあるほうの道を進む。スズキさんの話によると、
4年前、ゲットー・スクウェアができたばかりの頃は鋪装されてなくて、ロバが荷物を
運ぶのと擦れ違ったりしたという。ゲットー効果で地区の近代化が進んだのだろう。

 雑草がぱらぱらと生えているだけの何の変哲もない広場が道の左側にあった。スズキ
さんに「ここが、チンバラーダが最初の頃に練習していた場所だ」と教えてもらわなけ
れば、見過ごすところだった。
 この空き地で録音した30秒ほどのサウンドがラジオで流れた直後に「今のすごいのは
何だったんだ?!」という問い合わせが殺到したという。つまり、チンバラーダ発祥の地
なんだな、ここが。

 一軒のバンカ(道端にあるキオスクのような小さな商店)を通り過ぎたところで、前衛
的なデザインの建物がいくつか視界に飛び込んできた。目に鮮やかな原色で、壁にさま
ざまな絵や幾何学模様が描かれているのだ。無表情なビル街のすぐそばに、こんな独自
の世界が広がっているとは。。。あの辺りが、カンヂアルの中心地だな。
 子供たちが坂道を降りてきた。五人のうち一人は裸足で、あとの四人はサンダルを履
いているが、上半身は裸だ。5?6才ぐらいの少女たちは、きっと双子だろう。お揃い
の赤いリボンと黄色い半ズボンがとっても可愛い。カメラを撮り出して「撮ってもいい
か?」と尋ねると、黙って整列してくれた。カシャ!・・・・・少し、笑顔がカタい。
見知らぬ闖入者を警戒しているのだろう。

 3年前と同様、風船を持ってきているのだが、ここで披露するのは早すぎるかもしれ
ない。
 あせるな、と自分に言い聞かせつつ、先に進む。すると、壁を真っ赤に塗った小さな
建物が目の前に現れる。倉庫のような造りで、廂からバケツや空き缶等が釣り下げられ
ている。赤い壁のあちこちに「BANDA LACTOMIA」「PAZ, AMOR, ESCOLA...」等と
書かれ、楽譜や音符、ト音記号等が描かれている。
 ブラウンが率いる独創的子供打楽器集団・ラクトミーアの独創的楽器の置き場なのだ
ろう。カンヂアルの子供たちに空き缶や空き瓶等を再利用した楽器の演奏を教えて、独
自の音楽活動を展開しているという話は何度も聞いたことがある。残念なことに、まだ、
実際の演奏を聴いたことはないけれど。

 入り口の前には漬物石ぐらいの大きさの石がいくつか置かれている。きっと駐車禁止
の意図で置かれているのだろう。ご丁寧にも、石全体を黒く塗ってその上に白くチンバ
ラーダ的幾何学模様をデザインしてある。
 ブラウンの仕業かな?.....彼の手によるものではないかもしれないが、巨大な才能の
奥底でイタズラ小僧のような好奇心が跳ね回っているあの男なら、こういう遊び心が気
に入ることだろう。いずれにせよ、ここはブラウンの地元だと実感した。

 その先に、湧水の出る一角がある。板垣真理子さんの写真集にも載っていた「Agua
Mineral」ゆかりの泉だが、板垣さんが訪れた時の面影は残っておらず、コンクリート
で固められて小さな広場になっていた。水場は残っているが、栓をしめているのか、水
は涸れていた。この一角は、こぎれいな手摺で囲まれていて、むこう側の壁に絵文字で
「CRIATIVE CULTURE」などと書いてある。
 広場のそばにドンとそびえているのが、ブラウンが心血を注ぎ込んで作り上げた学校
「PRACATUM」だ。壁面に巨大な矢印、そして白と黒のタイルでチンバラーダ的ぐり
ぐり模様を描いてある。そして、その向こうに、ゲットー・スクウェアが鎮座している。
壁の色が緑と黄色を基調にしたものに塗り替えられ、屋根の上のピラミッドも、白い壁
で覆われている。

 タクシーで来た時は、なんだか華々しくなったな、と感じただけだが、歩きながら見
回してみると、予想以上に大きな変化が見られる。がけっぷちにへばりつくように建て
られていた細民街が、コンクリート製の瀟洒なテラスハウスに変身している。これも、
ブラウン効果か。後でここの住人から聞いたのだが、崖崩れの危険性のあるこの区域の
住民に懇願されたブラウンが、私財を投げ打って整備したのだそうだ。道幅が狭いのは
相変わらずだが、チンバラーダが稼いだお金を投入した結果、下水道や街灯などのイン
フラが見違えるほどに整備されたのだ。

 あいにく、道場の主・マルキーニョス氏は不在で、鍵がかかっていた。その隣のスタ
ジオはブラウンがいつも使用しているところだけれど、ブラウンの愛車がないから今日
は来ていないよ、とスズキさんが教えてくれる。ひょっとすると、カンヂアルの御本尊
に出くわすかも....と淡い期待を抱いていたのだが、世の中そんなに甘くないようだ。
 3年前にも立ち寄った店でジュースを飲みながら少し気を鎮める。興奮がおさまって
くると、3年前のことがリアルに思い出されてくる。あのときは、ゲットースクウェア
の向こう側へ足を踏み入れるのに躊躇して、結局、元の道を引き返してしまった。今回、
逆側から入ってみて、カンヂアルが思いのほかこぢんまりとした区域であることがわか
った。車の通れる道は一本しかなく、細かい路地が入り組んでいる。

 「せっかく来たんだからちょっと探検してみよう」と意見が一致して、スズキさんも
入ったことがないという細い路地に足を踏み入れてみる。が、すぐに行き止まりだった
り、民家の庭先に直結していたりして、しかもその周囲は生の生活の匂いがぷんぷんし
ていて、なんとなく気が引ける。余りに庶民的すぎて、我々余所者がお邪魔するような
場所ではないって感じだ。間違っても観光客がうろつくようなところではない。
「貴様ら、何者だ!」
などと怒鳴られたら、平伏するほかはない。

 おそるおそる歩いていると、「PRACATUM」の裏側の少し広めの路地に出た。そこ
で、何かの資材を片付ける作業をしている女性数人と、その子供たちに出会った。
 子供たちが好奇心いっぱいの目で僕たちを見ている。母親たちは、作業の手をとめて
にっこり笑ってくれた。ここなら、うまくいきそうだ。
 スズキさんに「ここでちょっと時間をとるけど、いいかな?」と断わって、風船を取
り出す。たちまち子供たちに囲まれる。ササッと犬を作り上げて、一番快活そうな太っ
ちょの少女に渡す。
「プレゼントだよ」
両目を大きく見開き、歓声をあげる少女。そのまま駆け出して自分の家に戻り、家の中
にいる誰かに向かって「ほら!見て!! ニホンジンにこんな物もらっちゃった」と叫んで
いる。

 あまりにもストレートな反応にあっけにとられつつ、その場に居た子供たちに一つず
つ作ってあげる。小さい子供から順々に.....男の子たちは「次はオレだ」と激しく主張す
るが、
「So pra crianca pequeno. 」(ちっちゃい子だけだよ)
と話しかけると、不満そうな顔をしながらも、手を引っ込める。
 ペンシルバルーンは膨らませるのに時間かかかる。今回は小型のポンプを使っている
のでなおさらだ。あまり時間を喰っていると、噂を聞きつけた子供たちが次々に集まっ
てきて、収拾がつかなくなる。そこで、男の子たちにはふつうの風船を口で膨らませて
あげることでお茶を濁した。

 ひととおり行き渡ったところで、お手玉を取り出してジャグリングを披露する。これ
もウケた。母親たちから拍手が起こる。一人の母親に「Quer tentar?」(やってみる?)
とお手玉を手渡すと、周りから激励の拍手が起こる。
 ジャグリングというのは簡単そうに見えるが、練習したことがないとなかなかうまく
いかないものだ。すぐに地面に落としてしまう。別の母親がチャレンジする。その度に
かけ声やため息、笑い声が起こる。とってもなごやかで明るくて、いい雰囲気だ。心が
洗われる。そう、こんな空気に触れたくて、カンヂアルを訪ねたのだ。期待以上に良い
反応に、頬がゆるんでくる。

 誰もうまくできず、スズキさんにもやってみろと声がかかる。
「えっ、俺?やったことないんだけれどなあ....」
おずおずとお手玉をあやつるスズキさん。やはり、三、四度目には落としてしまう。
それで、「アンタはどんなマジックができるんだ?」などと囃されている。
なんか、僕の引き立て役みたいになっちゃって気の毒だったので、フォローのつもりで
「この人はねぇ、チンバウが上手なんだよ」
と言ってみたが、誰一人として反応しない。日本人がチンバウを演奏できるなんてのは、
インド人が三味線を弾くくらい珍しいことだし、ましてやカンヂアルはチンバウの総本
山みたいな土地柄なのだから、「どんな曲が好きなの?」とか「どこで習ったの?」と
か、質問が集中するんじゃないかと思ったのだが、驚くほどそっけない反応なのだ。

 スズキさん曰く、
「ここの人たちにとって、チンバウが上手いのは当り前のことなんだよ」
・・・・なるほど、そうなのか。
 僕にしてみれば、スズキさんの演奏技術の一端でも聞かせることができれば、すぐに
驚異と賛嘆の視線が集まるのではないかと思ったのだが、いくら上手に演奏したところ
で、日本における「箸でご飯を食べる外国人」と同じぐらいにしか評価されないという
わけだ。
 うーむ、さすがはカンヂアル。奥が深い。

 そんなわけで、路地裏の人々の関心は僕の低レベルな大道芸の方に集中する。
 やり方を教えてほしいと母親たちにせがまれて、「ほら、一つめがいちばん上にある
時に二つめを投げるんだよ。こうやって...」と、大きな動作で模範を示してあげると、
「わかった」という声とともに一人の大柄な母親が進み出てきて、チャレンジする。
 一回、二回、三回、四回、・・・七回目ぐらいで落としてしまったけれど、初めてに
しては、上出来だ。わぁーっという歓声と拍手が彼女を包む。
 そろそろ潮時だ。記念写真を撮って、笑顔でお別れしよう。いやあ、楽しいひととき
だった。

 ・・・と、いうふうには、なかなか収まらなかった。
「風船をあげるのは、子供だけだよ」と言ったのに、通りがかったおばさんが「うちの
子供のために、一つ作れ」と言って聞かず、きつい目つきでつきまとうのに根負けして、
一つだけ作ってあげた。そのおばさんは満足してくれたが、他のおばさんや男の子たち
が「それなら私にもちょうだい」等と言い出すと、面倒なことになる。人垣がこれ以上
大きくならないうちに、急いで退散しなくては。
 元の通りまでそそくさと引き上げてから、スズキさんに、テラスハウスの階段を登っ
てみようと提案した。
 急な階段の両側にこぢんまりした、清潔そうな住宅が続いている。それぞれの持ち家
が、コンクリートの壁を明るい原色で塗り分けているのがバイーアらしくて、とても
センスがいい。ほとんどの家は窓が開けっ放しで、部屋の中が丸見えだ。家具や調度品
を見るかぎり、けっこう良い暮らしをしている。少なくとも、ファベイラという形容詞
は似合わない。
 階段を登る僕たちの後ろから、さっき風船をしつこくねだったおばさんがついてくる。
また、何かをねだるつもりなのかと少しばかり身構えたが、さっきとは打って変わった
穏やかな顔で、
「この先は、行き止まりだよ」
と教えてくれた。
「かまわない。僕たちは、ここの上からカンヂアルの風景を見たいんだ」

どうやら、このおばさんはこの一角に住んでいるらしい(ここがブラウンの援助で作ら
れたと教えてくれたのは、このおばさんだ)。
 おばさんと一緒に最上階まで上がると、6-7人の子供たちがきゃあきゃあ言いながら
出てきた。裸足だし、シャツも着ていないが、元気と好奇心が一杯の笑顔で僕たちを
歓迎してくれた。おばさんは、さっき僕から手に入れた風船の犬を子供たちに見せて、
子供たちが喜ぶさまを幸せそうに眺めている。
 しつこく詰め寄られて少し気分を害したけれど、あの時すげなく断わったりしないで
よかった、と密かに胸を撫で下ろす。

 全員に風船を作ってあげたいと思ったけれど、あと一つしか残っていなかったので、
代わりに簡単なマイム芸を披露してあげた。虚空に壁を作ったり、一人で綱引きをした
りしてみせただけだが、幸い、とてもウケた。
 子供たちは、お返しとばかりにカポエイラの技を披露したり太鼓を叩いたりして、僕
たちを楽しませてくれた。こっちも負けじとジャグリングを披露してお手玉を渡すと、
きょうだいあらそって真似をしはじめた。

 子供たちの父親は、片手に長い木の棒を、もう片方の手にビール瓶の破片を手にして
にこにこ笑っていた。それは何かと尋ねると、こうやって削るんだと言いながら、木の
皮をビール瓶の破片で削ぎ落としてみせた。
 彼は、テラスハウスの一番上、階段の行きどまりを越えて土の見える斜面に僕たちを
案内してくれた。子供たちが、太鼓やお手玉を持ってぞろぞろついてくる。

 雑草がまばらに生えただけの狭い隙間には、同じ長さの木の棒がたくさんあった。彼
は、この棒の皮を削ぎ落として生木にし、形を整えることを生業としているようだ。
「それ、ビリンバウになるの?」
と聞くと、そうだと答えた。やっぱり。一番年上の子供(15才ぐらい?)も、同じように
ビール瓶の破片で木の皮を削り始めた。カメラを向けると急に真面目な顔で真剣に働き
だしたが、写真を撮りおえると、また元のペースに戻るあたり、なんか微笑ましい。
 弟や妹たち(たぶん近所の子供たちも)は、彼らのそばで太鼓を叩いたりカポエイラの
技を練習したり、樹に吊るした古タイヤをブランコにしたりして、機嫌よく遊んでいる。
彼らは、いつもこんなふうにして日を過ごしているのだろう。
 のどかだ。
 豊かな暮らし向きとは言えないにせよ、なにかしら満ち足りた空気が感じられる。
 ふと、狩猟採集民の集落を訪れているような錯覚に陥った。遊びと隣接した、家族
単位の生産、時間に制約されない労働。。。子供が遊んでいるのを一日中眺めながら
暮らせる親なんて、そうそうあるもんじゃない。

 だけど、彼の手づくりのビリンバウが観光客の手によって現金に変えられない限り、
この生活は成り立たない。バイーアの歴史的特殊性と音楽的環境が、この家族の生活
を支えているわけだ。
 彼らの仕事場で、かつ、生活の場でもある崖の上の斜面から、カンヂアルを見おろ
してみる。思ったよりも緑が多く、美しい風景だった。
 家族の一人一人と握手を交わし、笑顔で別れを告げる。今度来る時も、彼らは僕たち
のことを覚えていてくれるだろうか。

 陽射しが、少しやわらいできた。スズキさんに「どうします?もう帰ります?」と
聞かれた。たしかに、潮時だ。が、何となく予感がして、「もう少し、うろつきたい」
と主張した。まだ通っていない道がある。あの道を歩いてから帰ろう、と。

 その道を歩き始めて最初の角を曲がったところで、立ち話をしていた男に呼び止め
られた。スズキさんがその男に近づいていった。二人は握手したあとで僕を指差しな
がら、うなづき合っている。
「彼がカポエラ道場のマルキーニョスですよ。今の話、聞き取れましたか?」
「わかんなかったけど、なんか、僕のこと言ってたみたいやね。」
「"ずっと前に風船を持ってきた男だろう"って。」
なんと、3年前にビリンバウで伴奏してくれたのが、このマルキ?ニョスだったのだ。
どうりで演奏が上手かったわけだ。当時の彼は小さなバンカで細々と商売していた、
半失業者みたいな状態だったらしいが、今ではミュージシャンとして、また、カポエ
イリスタとして認められて、 自分の道場を経営するまてになったわけだ。カンヂアル
の発展の歴史は、彼の成功物語と軌を一にしている。

 それにしても、僕の顔を覚えていてくれたなんて、光栄だ。
 あの時の風船作りが、こんなふうに人間関係を繋げてくれたというのも、バイーア
・マジックのなせる技だろう。

 マルキーニョスは、僕たちのためにわざわざカポエイラ道場を開け、中に招き入れ
てくれた。建物の内側にも外側にも、独特のタッチのイラストがびっしりと描かれて
いる。ビリンバウを掴んで舞い上がる鷲、西洋のお伽話に出てくるような森の精たち、
顔に刺青を入れたリアルなインヂオの顔....
 壁にかけてあったビリンバウを手に取り、次々と曲を弾いては解説を加えるマルキ
ーニョス。勿体ぶったことはひとことも言わず、音楽こそが唯一の価値、唯一の言葉
であるかのように、様々なメロディーを奏でてみせる。たった1本の弦から変幻自在
に繰り出されるリズムの魔術。なんて贅沢な時間なんだろう。
 さまざまなリズムのパターンを弾いてみせながら、口でメロディーを奏でる。聴い
たことのある曲、誰の歌だったっけ。。。いちいち記憶の引き出しを探るのが面倒に
なり、流れる曲に身を気持ちを委ねて楽しむことにした。せっかくの解説だけれど、
僕にはネコに小判だ。音楽談義は、スズキさんに任せよう。
 マルキーニョスはそんな僕の気持ちを読み取ったのか、途中から解説をやめて演奏
に集中し、長い曲をいくつも弾いてみせてくれた。ひょっとしたら、独りで演奏して
いるうちに気持ちよくなってしまったのかもしれない。

 ビリンバウの音を聴きつけたのか、何人かの子供や大人が道場まで上がってきて、
しばらく演奏を聴いてから、何も言わずに出ていく。壁に貼られた写真を見たり、
そのへんの物を触ったりするが、マルキーニョスはまったく意に介せず、演奏を続け
る。「オイ!」とかなんとか挨拶することもなく、気ままに入ってくる人、出ていく
人。私有空間と言う感覚が希薄なんだろう、きっと。

 うっとりしながら演奏を聴きつつ、壁の写真を見てみる。昔のカンヂアル、路上で
カポエイラを披露する、今よりちょっと若いマルキーニョス。ブラウンの姿も写って
いる。チンバラーダ創世期のカンヂアルの記録だ。
 思わず、熱心に見入ってしまった。マルキーニョスは気配りの人らしく、そんな僕
のために演奏を中断して、写真の解説をしてくれる。カナダやアメリカへ招かれた時
の写真もある。本人が写っているときは、ほとんどカポエイラのポーズを決めている。
 蛇を体に巻いている写真もあった。大切に飼っているペットだそうだ。 彼の名前、
マルキーニョス・ダス・コブラスの"das cobras"というのは、それにちなんでつけた
らしい。コブラのマルキーニョス、というわけだ。
 三月に発売されたカルリーニョス・ブラウンの3rdアルバム「BAHIA DO MUNDO」
の6曲めにBerimbau奏者として"Marquinhos das cobrasとクレジットされている
のが、この彼である。

 その他の写真は、カンヂアルで催し物があった時のもので、何人もの有名なミュー
ジシャンが写っている。ひとり、どこかで見たような顔だちの若者が写っていたが、
バイーアのミュージシャンじゃなさそうだったので誰かと問うと、ボブ・マーリーの
息子だよ、という答え。
 カンヂアルの片隅から、いろんなところに道が通じている。

 ひととおり写真の説明をしてくれた後で、マルキーニョスはカポエイラを披露して
くれた。カポエイラ・アンゴラとカポエイラ・ヘジオナルの違いを、分かりやすく説
明してくれる。メストレ・ビンバをはじめとする有名な先達たちが、奴隷たちが伝え
てきた技を体系化し、新たな技を開発してきた。予備知識のない僕には細かいことが
わからないけれど、体を使ったアート("art"には格闘技の意味もある)であることが
実感できた。サービス精神旺盛なマルキーニョスは、ブレイクダンスばりに頭を軸に
したままくるりと回転してみせたり、写真を取りやすいように逆立ちの途中で静止し
てみせたりもしてくれた。

 彼は、音楽やカポエイラのほかに、楽器の販売もしているらしいが、僕たちにそれ
を売りつけようとは全く考えていなかった。スズキさんが、シェケレの値段について
尋ねたので、初めてそのことを知った。彼のところなら、街で買うよりそうとう安い
値段で買えるらしい。外国人だからといって吹っかけようとしないのは、バイーアで
は極めて珍しいことだ。これだけ色々やってくれたのだから、彼が商品を見せさえす
れば、僕たちは何か買って帰るだろうに、そういう欲が湧いてこないらしい。

 彼が別れ際に熱っぽく語ってくれたのは、やはり音楽とカポエイラのことだった。
・・・アフリカの文化と伝統が、ここカンヂアルに息づいている。これは大切なこと
だ。これを広め、次の世代に伝えていかなければならない。そう語るマルキーニョス
のうしろの壁には、炎をかたどった文字で「Afro in Candial」と書かれていた。

 帰り道、残ったフィルムを使い切ろうと思ってそのへんの電柱や壁に描かれた絵に
カメラを向けていると、坂道の上の方から音楽が聞こえてきた。良いリズムだ。誰が
叩いてるんだろう。

 坂道を下りてきたのは、小学生ぐらいの女の子たちだった。手にスティックと空き
缶を持ち、それを叩きながら歩いている。音楽が、遊びとして定着しいるのだろうが、
遊びの域を越えているうまさだ。写真を撮ってもいいかと尋ねると、にっこり笑って
うなづいた。カメラを前にして、ちょっぴり誇らしげに演奏を続ける少女たち。

 この娘たちは、地球上のどこで暮らすことになっても、カンヂアルに育ったことを
誇りに思うだろう。大金持ちにならなくても、引け目を感じることなんてないだろう。
なにしろ、空き缶が一つありさえすれば、言葉の通じない人々にだって喜びを与える
ことができるのだ。

 かつて逃亡奴隷が隠れ住んだと言われる擂り鉢の底・カンヂアル。カポエイラ発祥
の地でもあるという(ブラウンがインタビューでそう言っていた)。

 電気も下水もちゃんと通っていなかった貧民街が、今や世界中のバイーア音楽ファン
の注目を集めている。それも、一時のブームなんかじゃない。間違いなく豊かな将来を
感じさせる土台を作り上げている。過去を踏まえた上に現在があり、それが未来へと確
実につながっている。

 この娘たちがカンヂアルの未来なんだな、と思った。

                 (完)

                         written by "AXE junkie"