<2001年カンヂアルの旅>      

 カンヂアルを初めて訪れたのは97年の暮れだった。
 この時は、LAPAからBROTAS行きのバスに乗り、坂道を下った。相棒のミヤケ君
はその前の年にできたばかりのゲットーでのライブを体験しており、彼に案内されて
二人でやってきたのだった。
 僕にとっては初めてのバイーア、いや、初めての南米で、ポルトガル語はまったく
話せなかった。
 話せなかったのはミヤケ君も同様だ。だが彼はチンバラーダの大阪公演の際に関西
国際空港まで見送りに行き、ヴォーカルのパトリシアに花束を手渡したことがある。
感激した彼女たちは、ミヤケ君の好意に答えるために、雑多な人々が行き交う空港の
ロビーでパーカッションの包みを解き、わざわざ一曲演奏してくれたそうだ。
「あの時の彼がはるばるカンヂアルまで来てくれた」ということで、その時のゲットー
ライブでミヤケ君はステージ上に招かれて、パトリシアと熱く抱擁を交わしたという。
 熱いぜ、チンバラーダ。

 僕は、空港での見送りこそできなかったものの、ミヤケ君と一緒に「かわちながの
音楽祭」の交流イベントに参加して、パトリシア、アウグスト、シェシェウ、アレッ
シャンドラたちチンバラーダの面々と楽しいひとときを過ごし、彼らのフレンドリー
な素顔に接したことがある。
 彼らなら、僕のことだって覚えていてくれるかもしれない。
 なによりも、彼らの生の音にもう一度触れたかった。

 ところが、彼らに会いたい一念で片道36時間もかけて地球の反対側からやってきた
というのに、無慈悲にも僕たちがカンジアルを訪れた日は、彼らはポルトセグロまで
ツアーに出かけていて、ゲットースクウェアでのライブは行なわれなかった。
 この頃僕はカタギの勤め人で、短い正月休みを利用しての旅行だったから、その週
の金曜日には日本に帰ってしまうという日程だった。つまり、この日がチンバラーダ
と出会える唯一のチャンスだった。
 そりゃ、ないよ。。。。
 意気消沈しつつも、ゲットーの前で記念写真を撮り、ゲットーの隣の店でジュース
を飲んだ。
 子供たちが路上で遊んでいる。半ズボンに上半身裸という格好でサッカーボールを
器用にあやつっている。裸足の子供も数人いた。
 僕は、ライブ開始までの待ち時間を利用して地元の子供たちとコミュニケーション
を図ろうと思い、ペンシルバルーンを持参していた。
 せっかく来たんだから、風船だけでもやってみようか。。。
 昔、パントマイムを習っていた頃に教えてもらった簡単なやつ(いぬとうさぎ)しか
作れないが、面白がってくれるだろうか。

 街角サッカーに加わらず、遠くから僕たちのことを興味深そうに眺めていた少年を
招き寄せ、風船を取り出す。
 少年は、好奇心いっぱいの顔で覗き込む。
 注射器みたいなポンプを取り出し、空気を吹き込む。
 風船が膨らんでいくのを見て、少年の顔が輝き始める。
 そのころには、路上でサッカーをしていた男の子たちも気づいてわらわらと集ま
ってくる。
 10cmぐらい余裕を残して空気注入をやめ、注入口をギュッとゆわえる。
 早くも、「ちょうだい」とばかりに手がたくさん伸びてくる。
 「まて、まて、まて」と手で制して、きゅっ、きゅっ、きゅっと捩って犬の頭の
部分を作る。
 子供たちが、わあっと歓声をあげる。
 きゅっ、きゅっ、きゅっ。前足。きゅっ、きゅっ、きゅっ。後ろ足。
 完成だ。
 みんなに見えるように頭上に掲げる。
 飛び上がってそれに触ろうとする子供たち。
 ぐるっと見回して、いちばん小さい子供にあげる。
「次はオレ、次はオレ」
 その場にいた全員が、からだ全体でそう主張しながら、まとわりついてくる。
 ちょっとヤバいかな。。。。収拾がつかなくなるかもしれない。
 荷物をミヤケ君に預けて、ひたすら風船作りに励む。渡す時は、小さい子供から
順にあげるようにしていった。
 通じないのを承知で、日本語で「ちいちゃい子ぉからやで」と言いながら、次に
小さいのはどの子かな...と見回すと、ちゃんと僕の意図を察して人垣の輪がくずれ、
ちゃんと小さい子が受けとれるように場所を空けてくれた。
 なかなか感心な子供たちだ。
 でも、その子が受け取ると、全員が「次こそオレの番だ」とばかりに手を伸ばし
てくる。思いやりもあるが、容易なことではヘコたれない。
 なんだか嬉しくなってきた。
 と、そこへ、どこからともなく上半身裸の兄ちゃんがビリンバウを演奏しながら
現れた。そして、何もいわずに、僕の動きに伴奏をつけはじめた。風船が膨らむに
したがって音色が高くなっていく。そして、犬やウサギの形ができあがっていくの
と同時に曲がクライマックスを迎え、完成した瞬間にフィナーレに到る。
 まったく見事な演奏だ。
 昼間っからそのへんをふらついてる兄ちゃんでさえ、この腕前だとは....さすがは、
ブラウンの地元だ。
 カンヂアル、おそるべし。

 その翌年の末に、僕とミヤケ君はゲットースクウェアとは別の会場---郊外のウォー
ターランドの開園記念イベントだった---で、数千人の群衆とともにチンバラーダの
ライブを楽しみ、パトリシアとも再会を果たした。
 その後、僕はカタギの仕事を辞めて比較的自由に休みがとれるようになり、念願の
カルナヴァルにも参加することができた。この辺のことは「カルナヴァル体験記」で
詳しく触れたので、ここでは省く。
 2000年の末、今度こそゲットーライブに参加しようと思って、バイーア入りした
当日---ちょうど日曜日だった---に荷物をホテルに置くが早いかタクシーに乗り込み、
カンヂアルを再訪した。
 が、ゲットーの入り口で「クリスマスだから今日は休みだよ。来週おいで」と言われ
てしまった。三年前の空振りを再現してしまったのだ。
 長旅の疲れもあったので、このときはタクシーを降りることさえしないで、そのまま
Uターンした。

・・・・・・
 ここまでが、いわゆる「前振り」というやつです。書いているうちに長くなってしま
いました。以下、標題のとおり、2001年のカンヂアルの様子を点描します。

======
 三度めのカンヂアル訪問は、2001年の一月二日のことだ。
 カルナヴァルの時に知り合った、かの有名な「ブラザー・チンバ」でチンバウを叩く
スズキさんとバイーアで再会し、旧交を暖めたのが訪問のきっかけだった。スズキさん
は、しばらくバイーアに滞在してチンバウ修行に励むとのことだった。
 スズキさんは何度もカンヂアルを訪れており、ブラウンに曲を提供することもあると
いう市井のミュージシャンや、現地で道場を開いているカポエイリスタたちと旧知の仲
らしい。スズキさんが彼らとしゃべっているところにブラウンがやってきて、自作の曲
をブラウンの前で演奏してみせる....という場面に出くわしたこともあるそうだ。訪ねて
いけば、昔のカンヂアルの写真等を見せてくれるだろうということだった。
「ぜひ、連れてってください。僕も、その人に会いたいです」
こうして2001年カンヂアルの旅が始まった。

 「カンヂアルって、ファベイラでしょ? 危険じゃないの?」
 バイーアのことを少し知っている日本人に、何度か聞かれたことがある。
 正直言って、最初は、足を踏み入れるのに緊張した。財布を隠しポケットに入れたり、
いざという時に走って逃げられるように、サンダルをスニーカーに履き替えたりもした。
だけど、実際に行ってみると、そのような警戒心はまったく場違いであるように思えた。
こちらの不注意や不用心のせいでブラウンの地元に無用のトラブルを招くような事態は
避けるべきだけれど、旅人としてのマナーさえ守っていれば、恐い思いをすることは、
まずないだろうと思う。

 バスで行くには、前述のようにLapaからBrotas行きに乗り途中下車して坂道を下る
か、BarraからRisboa行きに乗り、Centre Medicoのあたりで降りて坂道を登るか、
二つのルートがある。今回は、後者の道を選んだ。
 バスを降りて広い道を渡る。まわりには真新しい高層ビルが立ち並んでいる。お洒落
なオープン・エアのレストランを横目に見ながら路地に入る。ここまでは、極めて人工
的・近代的な都市の一角に居るとしか思えない。

 路地に入って、二つめの角を左に曲がる。すると、目の前に堤のような小さい池が現
れる。池のそばには小さな林があり、樹々のこずえが路上に鬱蒼とした影を投げかけて
いる。ちょうどそこがバス停になっていて、家族連れらしき数人が影の中にしゃがみ込
んでバスを待っていた。彼らのたたずまいは、数年前にタンザニアを旅行した時に目に
した情景を思い起こさせた。
 突然、アフリカの一角に迷い込んだような錯覚を感じたのだ。
 先に進むと、赤土が剥き出したままの空き地があり、右上に向かって細い道が続いて
いた。道の上に小屋があって、そこから太鼓の音が聞こえてくる。子供が叩いて遊んで
いるようだ。僕たちの姿を認めた子供が、太鼓を叩く手をとめて、上から僕たちを見お
ろしている。

 わくわくしてきた。中国の古い話に、童子に導かれて桃源郷に到るという伝説がある
が、まさしく異界への入り口をくぐり抜ける気分だ。
 坂道を少し上がり、左側の鋪装してあるほうの道を進む。スズキさんの話によると、
4年前、ゲットー・スクウェアができたばかりの頃は鋪装されてなくて、ロバが荷物を
運ぶのと擦れ違ったりしたという。ゲットー効果で地区の近代化が進んだのだろう。

 雑草がぱらぱらと生えているだけの何の変哲もない広場が道の左側にあった。スズキ
さんに「ここが、チンバラーダが最初の頃に練習していた場所だ」と教えてもらわなけ
れば、見過ごすところだった。
 この空き地で録音した30秒ほどのサウンドがラジオで流れた直後に「今のすごいのは
何だったんだ?!」という問い合わせが殺到したという。つまり、チンバラーダ発祥の地
なんだな、ここが。

 一軒のバンカ(道端にあるキオスクのような小さな商店)を通り過ぎたところで、前衛
的なデザインの建物がいくつか視界に飛び込んできた。目に鮮やかな原色で、壁にさま
ざまな絵や幾何学模様が描かれているのだ。無表情なビル街のすぐそばに、こんな独自
の世界が広がっているとは。。。あの辺りが、カンヂアルの中心地だな。
 子供たちが坂道を降りてきた。五人のうち一人は裸足で、あとの四人はサンダルを履
いているが、上半身は裸だ。5−6才ぐらいの少女たちは、きっと双子だろう。お揃い
の赤いリボンと黄色い半ズボンがとっても可愛い。カメラを撮り出して「撮ってもいい
か?」と尋ねると、黙って整列してくれた。カシャ!・・・・・少し、笑顔がカタい。
見知らぬ闖入者を警戒しているのだろう。

 3年前と同様、風船を持ってきているのだが、ここで披露するのは早すぎるかもしれ
ない。
 あせるな、と自分に言い聞かせつつ、先に進む。すると、壁を真っ赤に塗った小さな
建物が目の前に現れる。倉庫のような造りで、廂からバケツや空き缶等が釣り下げられ
ている。赤い壁のあちこちに「BANDA LACTOMIA」「PAZ, AMOR, ESCOLA...」等と
書かれ、楽譜や音符、ト音記号等が描かれている。
 ブラウンが率いる独創的子供打楽器集団・ラクトミーアの独創的楽器の置き場なのだ
ろう。カンヂアルの子供たちに空き缶や空き瓶等を再利用した楽器の演奏を教えて、独
自の音楽活動を展開しているという話は何度も聞いたことがある。残念なことに、まだ、
実際の演奏を聴いたことはないけれど。

 入り口の前には漬物石ぐらいの大きさの石がいくつか置かれている。きっと駐車禁止
の意図で置かれているのだろう。ご丁寧にも、石全体を黒く塗ってその上に白くチンバ
ラーダ的幾何学模様をデザインしてある。
 ブラウンの仕業かな?.....彼の手によるものではないかもしれないが、巨大な才能の
奥底でイタズラ小僧のような好奇心が跳ね回っているあの男なら、こういう遊び心が気
に入ることだろう。いずれにせよ、ここはブラウンの地元だと実感した。

 その先に、湧水の出る一角がある。板垣真理子さんの写真集にも載っていた「Agua
Mineral」ゆかりの泉だが、板垣さんが訪れた時の面影は残っておらず、コンクリート
で固められて小さな広場になっていた。水場は残っているが、栓をしめているのか、水
は涸れていた。この一角は、こぎれいな手摺で囲まれていて、むこう側の壁に絵文字で
「CRIATIVE CULTURE」などと書いてある。
 広場のそばにドンとそびえているのが、ブラウンが心血を注ぎ込んで作り上げた学校
「PRACATUM」だ。壁面に巨大な矢印、そして白と黒のタイルでチンバラーダ的ぐり
ぐり模様を描いてある。そして、その向こうに、ゲットー・スクウェアが鎮座している。
壁の色が緑と黄色を基調にしたものに塗り替えられ、屋根の上のピラミッドも、白い壁
で覆われている。

 タクシーで来た時は、なんだか華々しくなったな、と感じただけだが、歩きながら見
回してみると、予想以上に大きな変化が見られる。がけっぷちにへばりつくように建て
られていた細民街が、コンクリート製の瀟洒なテラスハウスに変身している。これも、
ブラウン効果か。後でここの住人から聞いたのだが、崖崩れの危険性のあるこの区域の
住民に懇願されたブラウンが、私財を投げ打って整備したのだそうだ。道幅が狭いのは
相変わらずだが、チンバラーダが稼いだお金を投入した結果、下水道や街灯などのイン
フラが見違えるほどに整備されたのだ。

 あいにく、道場の主・マルキーニョス氏は不在で、鍵がかかっていた。その隣のスタ
ジオはブラウンがいつも使用しているところだけれど、ブラウンの愛車がないから今日
は来ていないよ、とスズキさんが教えてくれる。ひょっとすると、カンヂアルの御本尊
に出くわすかも....と淡い期待を抱いていたのだが、世の中そんなに甘くないようだ。
 3年前にも立ち寄った店でジュースを飲みながら少し気を鎮める。興奮がおさまって
くると、3年前のことがリアルに思い出されてくる。あのときは、ゲットースクウェア
の向こう側へ足を踏み入れるのに躊躇して、結局、元の道を引き返してしまった。今回、
逆側から入ってみて、カンヂアルが思いのほかこぢんまりとした区域であることがわか
った。車の通れる道は一本しかなく、細かい路地が入り組んでいる。

 「せっかく来たんだからちょっと探検してみよう」と意見が一致して、スズキさんも
入ったことがないという細い路地に足を踏み入れてみる。が、すぐに行き止まりだった
り、民家の庭先に直結していたりして、しかもその周囲は生の生活の匂いがぷんぷんし
ていて、なんとなく気が引ける。余りに庶民的すぎて、我々余所者がお邪魔するような
場所ではないって感じだ。間違っても観光客がうろつくようなところではない。
「貴様ら、何者だ!」
などと怒鳴られたら、平伏するほかはない。

 おそるおそる歩いていると、「PRACATUM」の裏側の少し広めの路地に出た。そこ
で、何かの資材を片付ける作業をしている女性数人と、その子供たちに出会った。
 子供たちが好奇心いっぱいの目で僕たちを見ている。母親たちは、作業の手をとめて
にっこり笑ってくれた。ここなら、うまくいきそうだ。
 スズキさんに「ここでちょっと時間をとるけど、いいかな?」と断わって、風船を取
り出す。たちまち子供たちに囲まれる。ササッと犬を作り上げて、一番快活そうな太っ
ちょの少女に渡す。
「プレゼントだよ」
両目を大きく見開き、歓声をあげる少女。そのまま駆け出して自分の家に戻り、家の中
にいる誰かに向かって「ほら!見て!! ニホンジンにこんな物もらっちゃった」と叫んで
いる。

 あまりにもストレートな反応にあっけにとられつつ、その場に居た子供たちに一つず
つ作ってあげる。小さい子供から順々に.....男の子たちは「次はオレだ」と激しく主張す
るが、
「So pra crianca pequeno. 」(ちっちゃい子だけだよ)
と話しかけると、不満そうな顔をしながらも、手を引っ込める。
 ペンシルバルーンは膨らませるのに時間かかかる。今回は小型のポンプを使っている
のでなおさらだ。あまり時間を喰っていると、噂を聞きつけた子供たちが次々に集まっ
てきて、収拾がつかなくなる。そこで、男の子たちにはふつうの風船を口で膨らませて
あげることでお茶を濁した。

 ひととおり行き渡ったところで、お手玉を取り出してジャグリングを披露する。これ
もウケた。母親たちから拍手が起こる。一人の母親に「Quer tentar?」(やってみる?)
とお手玉を手渡すと、周りから激励の拍手が起こる。
 ジャグリングというのは簡単そうに見えるが、練習したことがないとなかなかうまく
いかないものだ。すぐに地面に落としてしまう。別の母親がチャレンジする。その度に
かけ声やため息、笑い声が起こる。とってもなごやかで明るくて、いい雰囲気だ。心が
洗われる。そう、こんな空気に触れたくて、カンヂアルを訪ねたのだ。期待以上に良い
反応に、頬がゆるんでくる。

 誰もうまくできず、スズキさんにもやってみろと声がかかる。
「えっ、俺?やったことないんだけれどなあ....」
おずおずとお手玉をあやつるスズキさん。やはり、三、四度目には落としてしまう。
それで、「アンタはどんなマジックができるんだ?」などと囃されている。
なんか、僕の引き立て役みたいになっちゃって気の毒だったので、フォローのつもりで
「この人はねぇ、チンバウが上手なんだよ」
と言ってみたが、誰一人として反応しない。日本人がチンバウを演奏できるなんてのは、
インド人が三味線を弾くくらい珍しいことだし、ましてやカンヂアルはチンバウの総本
山みたいな土地柄なのだから、「どんな曲が好きなの?」とか「どこで習ったの?」と
か、質問が集中するんじゃないかと思ったのだが、驚くほどそっけない反応なのだ。

 スズキさん曰く、
「ここの人たちにとって、チンバウが上手いのは当り前のことなんだよ」
・・・・なるほど、そうなのか。
 僕にしてみれば、スズキさんの演奏技術の一端でも聞かせることができれば、すぐに
驚異と賛嘆の視線が集まるのではないかと思ったのだが、いくら上手に演奏したところ
で、日本における「箸でご飯を食べる外国人」と同じぐらいにしか評価されないという
わけだ。
 うーむ、さすがはカンヂアル。奥が深い。

 そんなわけで、路地裏の人々の関心は僕の低レベルな大道芸の方に集中する。
 やり方を教えてほしいと母親たちにせがまれて、「ほら、一つめがいちばん上にある
時に二つめを投げるんだよ。こうやって...」と、大きな動作で模範を示してあげると、
「わかった」という声とともに一人の大柄な母親が進み出てきて、チャレンジする。
 一回、二回、三回、四回、・・・七回目ぐらいで落としてしまったけれど、初めてに
しては、上出来だ。わぁーっという歓声と拍手が彼女を包む。
 そろそろ潮時だ。記念写真を撮って、笑顔でお別れしよう。いやあ、楽しいひととき
だった。

 ・・・と、いうふうには、なかなか収まらなかった。
「風船をあげるのは、子供だけだよ」と言ったのに、通りがかったおばさんが「うちの
子供のために、一つ作れ」と言って聞かず、きつい目つきでつきまとうのに根負けして、
一つだけ作ってあげた。そのおばさんは満足してくれたが、他のおばさんや男の子たち
が「それなら私にもちょうだい」等と言い出すと、面倒なことになる。人垣がこれ以上
大きくならないうちに、急いで退散しなくては。
 元の通りまでそそくさと引き上げてから、スズキさんに、テラスハウスの階段を登っ
てみようと提案した。
 急な階段の両側にこぢんまりした、清潔そうな住宅が続いている。それぞれの持ち家
が、コンクリートの壁を明るい原色で塗り分けているのがバイーアらしくて、とても
センスがいい。ほとんどの家は窓が開けっ放しで、部屋の中が丸見えだ。家具や調度品
を見るかぎり、けっこう良い暮らしをしている。少なくとも、ファベイラという形容詞
は似合わない。
 階段を登る僕たちの後ろから、さっき風船をしつこくねだったおばさんがついてくる。
また、何かをねだるつもりなのかと少しばかり身構えたが、さっきとは打って変わった
穏やかな顔で、
「この先は、行き止まりだよ」
と教えてくれた。
「かまわない。僕たちは、ここの上からカンヂアルの風景を見たいんだ」

どうやら、このおばさんはこの一角に住んでいるらしい(ここがブラウンの援助で作ら
れたと教えてくれたのは、このおばさんだ)。
 おばさんと一緒に最上階まで上がると、6-7人の子供たちがきゃあきゃあ言いながら
出てきた。裸足だし、シャツも着ていないが、元気と好奇心が一杯の笑顔で僕たちを
歓迎してくれた。おばさんは、さっき僕から手に入れた風船の犬を子供たちに見せて、
子供たちが喜ぶさまを幸せそうに眺めている。
 しつこく詰め寄られて少し気分を害したけれど、あの時すげなく断わったりしないで
よかった、と密かに胸を撫で下ろす。

 全員に風船を作ってあげたいと思ったけれど、あと一つしか残っていなかったので、
代わりに簡単なマイム芸を披露してあげた。虚空に壁を作ったり、一人で綱引きをした
りしてみせただけだが、幸い、とてもウケた。
 子供たちは、お返しとばかりにカポエイラの技を披露したり太鼓を叩いたりして、僕
たちを楽しませてくれた。こっちも負けじとジャグリングを披露してお手玉を渡すと、
きょうだいあらそって真似をしはじめた。

 子供たちの父親は、片手に長い木の棒を、もう片方の手にビール瓶の破片を手にして
にこにこ笑っていた。それは何かと尋ねると、こうやって削るんだと言いながら、木の
皮をビール瓶の破片で削ぎ落としてみせた。
 彼は、テラスハウスの一番上、階段の行きどまりを越えて土の見える斜面に僕たちを
案内してくれた。子供たちが、太鼓やお手玉を持ってぞろぞろついてくる。

 雑草がまばらに生えただけの狭い隙間には、同じ長さの木の棒がたくさんあった。彼
は、この棒の皮を削ぎ落として生木にし、形を整えることを生業としているようだ。
「それ、ビリンバウになるの?」
と聞くと、そうだと答えた。やっぱり。一番年上の子供(15才ぐらい?)も、同じように
ビール瓶の破片で木の皮を削り始めた。カメラを向けると急に真面目な顔で真剣に働き
だしたが、写真を撮りおえると、また元のペースに戻るあたり、なんか微笑ましい。
 弟や妹たち(たぶん近所の子供たちも)は、彼らのそばで太鼓を叩いたりカポエイラの
技を練習したり、樹に吊るした古タイヤをブランコにしたりして、機嫌よく遊んでいる。
彼らは、いつもこんなふうにして日を過ごしているのだろう。
 のどかだ。
 豊かな暮らし向きとは言えないにせよ、なにかしら満ち足りた空気が感じられる。
 ふと、狩猟採集民の集落を訪れているような錯覚に陥った。遊びと隣接した、家族
単位の生産、時間に制約されない労働。。。子供が遊んでいるのを一日中眺めながら
暮らせる親なんて、そうそうあるもんじゃない。

 だけど、彼の手づくりのビリンバウが観光客の手によって現金に変えられない限り、
この生活は成り立たない。バイーアの歴史的特殊性と音楽的環境が、この家族の生活
を支えているわけだ。
 彼らの仕事場で、かつ、生活の場でもある崖の上の斜面から、カンヂアルを見おろ
してみる。思ったよりも緑が多く、美しい風景だった。
 家族の一人一人と握手を交わし、笑顔で別れを告げる。今度来る時も、彼らは僕たち
のことを覚えていてくれるだろうか。

 陽射しが、少しやわらいできた。スズキさんに「どうします?もう帰ります?」と
聞かれた。たしかに、潮時だ。が、何となく予感がして、「もう少し、うろつきたい」
と主張した。まだ通っていない道がある。あの道を歩いてから帰ろう、と。

 その道を歩き始めて最初の角を曲がったところで、立ち話をしていた男に呼び止め
られた。スズキさんがその男に近づいていった。二人は握手したあとで僕を指差しな
がら、うなづき合っている。
「彼がカポエラ道場のマルキーニョスですよ。今の話、聞き取れましたか?」
「わかんなかったけど、なんか、僕のこと言ってたみたいやね。」
「"ずっと前に風船を持ってきた男だろう"って。」
なんと、3年前にビリンバウで伴奏してくれたのが、このマルキ−ニョスだったのだ。
どうりで演奏が上手かったわけだ。当時の彼は小さなバンカで細々と商売していた、
半失業者みたいな状態だったらしいが、今ではミュージシャンとして、また、カポエ
イリスタとして認められて、 自分の道場を経営するまてになったわけだ。カンヂアル
の発展の歴史は、彼の成功物語と軌を一にしている。

 それにしても、僕の顔を覚えていてくれたなんて、光栄だ。
 あの時の風船作りが、こんなふうに人間関係を繋げてくれたというのも、バイーア
・マジックのなせる技だろう。

 マルキーニョスは、僕たちのためにわざわざカポエイラ道場を開け、中に招き入れ
てくれた。建物の内側にも外側にも、独特のタッチのイラストがびっしりと描かれて
いる。ビリンバウを掴んで舞い上がる鷲、西洋のお伽話に出てくるような森の精たち、
顔に刺青を入れたリアルなインヂオの顔....
 壁にかけてあったビリンバウを手に取り、次々と曲を弾いては解説を加えるマルキ
ーニョス。勿体ぶったことはひとことも言わず、音楽こそが唯一の価値、唯一の言葉
であるかのように、様々なメロディーを奏でてみせる。たった1本の弦から変幻自在
に繰り出されるリズムの魔術。なんて贅沢な時間なんだろう。
 さまざまなリズムのパターンを弾いてみせながら、口でメロディーを奏でる。聴い
たことのある曲、誰の歌だったっけ。。。いちいち記憶の引き出しを探るのが面倒に
なり、流れる曲に身を気持ちを委ねて楽しむことにした。せっかくの解説だけれど、
僕にはネコに小判だ。音楽談義は、スズキさんに任せよう。
 マルキーニョスはそんな僕の気持ちを読み取ったのか、途中から解説をやめて演奏
に集中し、長い曲をいくつも弾いてみせてくれた。ひょっとしたら、独りで演奏して
いるうちに気持ちよくなってしまったのかもしれない。

 ビリンバウの音を聴きつけたのか、何人かの子供や大人が道場まで上がってきて、
しばらく演奏を聴いてから、何も言わずに出ていく。壁に貼られた写真を見たり、
そのへんの物を触ったりするが、マルキーニョスはまったく意に介せず、演奏を続け
る。「オイ!」とかなんとか挨拶することもなく、気ままに入ってくる人、出ていく
人。私有空間と言う感覚が希薄なんだろう、きっと。

 うっとりしながら演奏を聴きつつ、壁の写真を見てみる。昔のカンヂアル、路上で
カポエイラを披露する、今よりちょっと若いマルキーニョス。ブラウンの姿も写って
いる。チンバラーダ創世期のカンヂアルの記録だ。
 思わず、熱心に見入ってしまった。マルキーニョスは気配りの人らしく、そんな僕
のために演奏を中断して、写真の解説をしてくれる。カナダやアメリカへ招かれた時
の写真もある。本人が写っているときは、ほとんどカポエイラのポーズを決めている。
 蛇を体に巻いている写真もあった。大切に飼っているペットだそうだ。 彼の名前、
マルキーニョス・ダス・コブラスの"das cobras"というのは、それにちなんでつけた
らしい。コブラのマルキーニョス、というわけだ。
 三月に発売されたカルリーニョス・ブラウンの3rdアルバム「BAHIA DO MUNDO」
の6曲めにBerimbau奏者として"Marquinhos das cobrasとクレジットされている
のが、この彼である。

 その他の写真は、カンヂアルで催し物があった時のもので、何人もの有名なミュー
ジシャンが写っている。ひとり、どこかで見たような顔だちの若者が写っていたが、
バイーアのミュージシャンじゃなさそうだったので誰かと問うと、ボブ・マーリーの
息子だよ、という答え。
 カンヂアルの片隅から、いろんなところに道が通じている。

 ひととおり写真の説明をしてくれた後で、マルキーニョスはカポエイラを披露して
くれた。カポエイラ・アンゴラとカポエイラ・ヘジオナルの違いを、分かりやすく説
明してくれる。メストレ・ビンバをはじめとする有名な先達たちが、奴隷たちが伝え
てきた技を体系化し、新たな技を開発してきた。予備知識のない僕には細かいことが
わからないけれど、体を使ったアート("art"には格闘技の意味もある)であることが
実感できた。サービス精神旺盛なマルキーニョスは、ブレイクダンスばりに頭を軸に
したままくるりと回転してみせたり、写真を取りやすいように逆立ちの途中で静止し
てみせたりもしてくれた。

 彼は、音楽やカポエイラのほかに、楽器の販売もしているらしいが、僕たちにそれ
を売りつけようとは全く考えていなかった。スズキさんが、シェケレの値段について
尋ねたので、初めてそのことを知った。彼のところなら、街で買うよりそうとう安い
値段で買えるらしい。外国人だからといって吹っかけようとしないのは、バイーアで
は極めて珍しいことだ。これだけ色々やってくれたのだから、彼が商品を見せさえす
れば、僕たちは何か買って帰るだろうに、そういう欲が湧いてこないらしい。

 彼が別れ際に熱っぽく語ってくれたのは、やはり音楽とカポエイラのことだった。
・・・アフリカの文化と伝統が、ここカンヂアルに息づいている。これは大切なこと
だ。これを広め、次の世代に伝えていかなければならない。そう語るマルキーニョス
のうしろの壁には、炎をかたどった文字で「Afro in Candial」と書かれていた。

 帰り道、残ったフィルムを使い切ろうと思ってそのへんの電柱や壁に描かれた絵に
カメラを向けていると、坂道の上の方から音楽が聞こえてきた。良いリズムだ。誰が
叩いてるんだろう。

 坂道を下りてきたのは、小学生ぐらいの女の子たちだった。手にスティックと空き
缶を持ち、それを叩きながら歩いている。音楽が、遊びとして定着しいるのだろうが、
遊びの域を越えているうまさだ。写真を撮ってもいいかと尋ねると、にっこり笑って
うなづいた。カメラを前にして、ちょっぴり誇らしげに演奏を続ける少女たち。

 この娘たちは、地球上のどこで暮らすことになっても、カンヂアルに育ったことを
誇りに思うだろう。大金持ちにならなくても、引け目を感じることなんてないだろう。
なにしろ、空き缶が一つありさえすれば、言葉の通じない人々にだって喜びを与える
ことができるのだ。

 かつて逃亡奴隷が隠れ住んだと言われる擂り鉢の底・カンヂアル。カポエイラ発祥
の地でもあるという(ブラウンがインタビューでそう言っていた)。

 電気も下水もちゃんと通っていなかった貧民街が、今や世界中のバイーア音楽ファン
の注目を集めている。それも、一時のブームなんかじゃない。間違いなく豊かな将来を
感じさせる土台を作り上げている。過去を踏まえた上に現在があり、それが未来へと確
実につながっている。

 この娘たちがカンヂアルの未来なんだな、と思った。

                 (完)

                         written  by  "AXE junkie"

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